宋常星『太上道徳経講義』(12ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(12ー3)
五音は人の耳をして聾(ろう)ならしむ。
「五音」とは、(中国の音階で)宮、商、角、徴(ち)、羽である。こうした音を聴くのは「耳」による。そうであるからこれを「耳根」という。人が五音を判別するのは、まさに「耳」の識別作用によるわけである。もし実際に音を聴くことがなくても、無音であっても、五音を正しくイメージすることはできるのであり、それで迷うことはあるまい。もし、よく聞き分けられないようなことがあるのは、静かに聴いてそれを識別する意識の働き(静聴の神機)が正常に働くことのできる環境にないからである。また内的な耳で「真空」を聴くことができなければ、珍しい(五音をして捉えることのできない)通常は聴くことのできないような音や肉体の耳を通しては聴くことのできない響きを聴き取ることはできまい。音が発せられれば、耳はそれに従って音を聴き取る。そして心もまた音によって動く。五音そのままであっても、時には正しく聴き分けられないこともあるが、それは聴いてはいても、聽けていないということになる。ここに「五つに分けられるような音だけが音であると思っている人は、それ以外の音を聴くことができなくなる(五音は人の耳をして聾(ろう)ならしむ)」とあるのはこうしたことを述べているわけである。もしよく肉体の「耳」だけが「耳」ではないことを認識できたなら、こうした五音のような一般的な「音」を音として捉えるだけではなく、清らかで静かな妙音が自然に聴こうとしなくても聴こえてくるようになる。肉体の「耳」によらない音を聴くことができるようになれば、我が「耳」があらゆる「音」を正しく認識できず、聴こえないようなことは生じない。
〈奥義伝開〉ここで宋常星は「音」には外的な音と内的な音があるとする。そして「五音」のような外的な音だけが音であると思い込んでいると、それ以外の内的な音を聴くことができない、とする。内的な音とは幻聴をいうのではなく、五音として捉えきれない微妙な自然の音のことをいっている。「五音」も前回の「五色」と同じく先入概念のことで、音が五つの種類だけと思い込むと、微妙な自然の音を認識することができなくなることを老子は言っている。老子が本当に言いたいのは、世の「常識」に捕われては本当の姿が見えなくなるということである。社会にはいろいろな慣習があり、個々人にも習慣があることであろうが、それを時には見直してみる必要があろう。そうすると意外に無意味なものに振り回されていることに気付くことがある。