宋常星『太上道徳経講義』(12ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(12ー1)

天地は大きく万物をよく包み込んでいるという。また百をもの川を受けいれている。それはまるでひとつの大きな「腹」のようでもある。さらには日月の光はあらゆるところを照らしているし、どんな遠いところにも光は及んでいる。それはあたかもひとつの大きな「目」のようである。天地は大きいといっても、もしそこに無極の「真」がなかったり、太極の「理」を有していなかったりしたなら、どうして総てを包含することができるであろうか。どうして総てを照らす大いなる光明となることができるであろうか。こうした妙義は人にあっては「腹」において有しているのであり、それは天地の「腹」と等しいものなのである。性命、陰陽を内に含み、五臓六腑を備えている。二つの目はつまり日月で神(意識)を通して外部と交わることのできる不可思議な部位(妙竅)である。人はたとえ「腹」を持っているとしても、「目」があるとしても、もし「性真の妙」を得ていなければ、五臓の気も乱れてしまうであろう。「目」を通して神はよく働く。もし物を見て心が動いたら、正しい性は本来の働きをすることなく、必ず迷妄を生じてしまうであろう。そうなると「目」は正しくものを見ることができず、耳も正しく聞くことができず、口も正しく味わうことができない。そうであれば適切な判断ができず誤った行動をとってしまうことになる。二つの目、耳と口の五の働きが害となるのであり、問題はそこから生じる。ここで述べられていることもそれである。


この章は「腹」について述べられているが、それは「人」そのものを表しているからである。迷いから真を知るには、通俗的な安穏にこだわってはならない。私欲に溺れてはならない。


〈奥義伝開〉「腹」とは後の儒教でいう「性」のことである。「性」とは人の今激的な心の働きをなすものとされ、それが働く時には「善」として現れるという。しかし、人は往々にして悪を為す。それは心が世俗によって曇らされているからで、「善」として現れているものが、悪へと曲げられているとする。老子は、そうした「世俗」からの影響を人は「目」によって受けるものとする。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(3)

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(2)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)