宋常星『太上道徳経講義』(11ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(11ー4)

戸ユウを鑿(うが)つをもって室と為すは、まさにそれ無に室の用有るべし。

「鑿(うがつ)」とは空間を開くということである。一つのものをして空間を開くのが戸であり、次いで空間を開くものとして門がある。「ユウ」とは、窓枠のことである。戸の空間を開くことで、往来出入りができるようになる。「ユウ」(窓)を開くと、それをして天地日月の明りを通すことができるようになる。戸や窓(ユウ)のあるところは、これを部屋とすることができる。部屋はその中に虚がある。虚があるからこそ部屋の用がある。有巣氏(古代伝説の聖人で家を発明した)が木を折って部屋を作って、穴居生活に代わるものとした。そした部屋があれば体を安んじることができることを人々は知るようになったが、部屋の用が虚にあることが認識されることはなかった。虚があるからこそ物を容れることができるのであり、このことは造物において「太虚の妙用」といえるものである。両儀とは天地の門戸のことで、万物はその奥の一室の中でひつとつになっている。こうした天地と、ここで述べられていることには不思議な一致(妙合)がある。そこには運動があり、養育がある。ここでの「門戸」は、人であれば口や鼻であり、耳目は「窓」とすることができよう。性命の主はつまり虚の中の妙体である。すべての物の実用がここから発せられている。そうであるから老子は「戸や窓の空間を開けることで部屋とすることができる。それはまさに無の空間を作ることで部屋として使えるようになるということなのである(戸ユウを鑿つをもって室と為すは、まさにそれ無に室の用有るべし)」と述べているのである。


〈奥義伝開〉戸や窓があるからこそ部屋として、より多くの機能を有することができる。先の「器」では中の空間を「虚」として、それが有ることで器に水を入れたりすることが可能となることについて述べていたが、ここでは空間が「室」に人が入ったりすることができる働きを有することについて述べられている。部屋の壁に戸や窓を開けることで、内外の流通が生まれることを指摘するわけである。これはシステムにおいては開放系となるということでもある。内に空間があるだけで戸や窓のないものとしては古墳の石室などがイメージされる。これは遺体を安置するという以外では使いようがない。システムとしては閉鎖系といわなければならない。一方「無の用」とはシステムが開放系であることを意味している。太極拳において長拳があり、八卦拳において八宮拳があるように自由に他の武術の動きを取り入れて開放系とすることのできるシステムが中に含まれていなければ、そのシステム自体が十分に稼働することはできないのである。


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