宋常星『太上道徳経講義』(11ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(11ー2)
三十輻は轂(こく)を共にす。まさにその無に車の用、有るべし。
「轂」とは車輪の中心軸のことである。それは輻(や)を受けているが、「轂」自体には何らの働きもないように見えるので「空竅(空なる要)」ということができる。車輪を作ろうとすなら車輪の外の輪を作らなければならないが、その外の輪は輻によって中心である轂につながるようにしなければならない。そうであるから轂は車輪にとって重要である(竅)し、それ自体が動いたりするわけではない(空)ので「空竅」とされる。つまり車輪の「用」は、人々によってよく知られているが、その本当の働きである「妙用」がどこから来ているのかは知られていない。それは虚の中にあるのである。虚としての竅、それはたとえ小さなものであっても、その働きは大きい。無心の心は、無であるがそこには道が存している。これは車輪の「用」と同じである。「用」は有に属しているが、それは無がなければ「用」が働くことはない。そうであるから「三十本の輻も車輪が用いられるには、一見して働きの見えない轂によらなければならない(三十輻は轂を共にす)」とされている。まさにその無とは「車輪の働きはまさにここに有る(車の用、有るべし)」とされるところのもので、それは車輪の虚であるばかりではなく、天地の太虚でもある。また自分の体においては「心」が「車」である体を御している。「心」の根源である「性」はつまりは「車」における妙であり、無妙つまり有(である体)において用をなすものなのである。「性」と「心」と体の有無、利用の関係は周り周って始まりもなく、止むこともない。元気運行の妙の中にあるといえよう。こうしたことを「車」を通して悟ることができるのである。
〈奥義伝開〉人にあって具体的な働きをするのは「体」である。そしてそれを動かしている目に見えないものは「心」である。さらに「心」の働きを可能としている目に見えないものが人の本来の働きである「性」とされる。確かに「心」はその働きを一定程度知ることはできるが、「性」についてはそれ自体の働きを知ることはできない。これらは後天の世界では「体」と「心」、そして先天、後天の世界では「性」と「命(後天の心、体を含む)」という仕組みになっている。