宋常星『太上道徳経講義」(10ー8)

 宋常星『太上道徳経講義」(10ー8)

これを生み、これを蓄えるは、生みても有(も)たず。

「生」とは、育てるということである。「蓄」とは、養うということである。天は陰陽五行をもって万物を生み育てている。聖人は道徳、つまり五常(父子の親、君臣の義、夫婦の

別、長幼の序、朋友の信)をして万民を育み育てる。天地はあらゆる形を作り、万物を育み育てている。本来的には、心のあり方によって生成の働きは促されている。あらゆる物を自分のもののように考えて「仁」を施す。万物はこれによって生まれ育てられる。すべては天地の「有」であり「不有」でもあるが、聖人は天地を父母として、その心を体しており、人々を教え育てている。そうであるから人々に利を得させることをして人々がよく生きられるようにすることはあっても、けっして利を自分のために得ることはない。また教えを立てて民の本来の心の状態(性)に復させる。それは物質的に人々の生活を豊かにすることで教えを垂れるのであって、このように民を育むことは「自然」の働きそのものなのである。このように聖人は天地が無心であるのと同じく人々を教化しているのであって、為すことなくしてつまり明らかには分からないところで徳を施している。そうであるから「生みて育てる」も「生みて有(あ)らず」つまり聖人の働きは見えて来ないというのが、ここでの意なのである。


〈奥義伝開〉ここでは「生而不有」を冒頭では「生みて有(も)たず」と読んでおいたが、宋常星は「生みて有(あ)らず」と解している。万物を生み育てるのは天地の働きであると同時に、聖人の働きでもある。そしてそれは生むという現象は知ることはできるものの、育てるという「道徳」の部分については一般には見ることができない、という意味となる。それは天地や聖人の働きが無為であり、自然であるからである。一方「有(も)たず」は生み、蓄える行為に執着をしない、ということで、これも基本は無為自然であるためにそうなる。無為とは何もしないことではなく、行うべきことを行って、それに執着しないことにある。


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