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道徳武芸研究 柔術から柔道へ〜変容したシステム〜(2)

  道徳武芸研究 柔術から柔道へ〜変容したシステム〜(2) 競技化により「引手」を中心とする強引な崩しが欠くことのできないものとなることは、嘉納も予想していなかったようで、これには苦慮していたらしい。そこで強引な崩しのない合気道にその解決の方途を求めようとしたのであった。嘉納は講道館から後に合気道の指導者ともなる望月稔などを派遣して植芝盛平に師事させた。こうした状況の頃に主体となって動いたのが三船久蔵である。三船は合気道からヒントを得て「空気投げ=隅落」を考案したが、これにおいてもかなり強い引手が用いられている。嘉納自身も柔道のシステムが変更されていることの理由に充分な認識を持ってはいなかった。そのために柔道と合気道が別のシステムであることの理由にまでは理解が及ばなかったようである。ただ結果として柔道が攻撃型となることは、他の柔術と試合を主導的に、つまり優位に進めることができることにもなったこともあり、柔道そのものに何らかの矛盾点を見出そうとする人も居なくなって行ったようである。柔道には古式の形として起倒流に由来するとされる形があるが、それは全く防御型であることからも本来の柔術が防御型であったことが分かる。およそ「柔(やわら)」が、強引な力を使わないで技を行い得るのは、相手の攻撃して来る力を使うからに他ならない。

道徳武芸研究 柔術から柔道へ〜変容したシステム〜(1)

  道徳武芸研究 柔術から柔道へ〜変容したシステム〜(1) 柔術は「武術」であり、柔道は「スポーツ」である。嘉納治五郎は柔道を国民体育と位置づけてもいた。はたして武術のスポーツ化とは一体どのようなものであったのであろうか。その大前提となるのは競技化である。嘉納が武術のスポーツ化のベースとして競技化を考えていたことは間違いあるまい。そのために柔術の危険な技や時代に合わない技(帯刀を前提としているような技)を整理したとされている。そして、重要なことは、その本質においても武術からスポーツへの大きな変容が為されたことである。つまり、それは防御型のシステムから攻撃型への転換があったことである。本来、柔術は相手の攻撃を受けて、それに対処するためにシステムが組み立てられていた。しかし、相手の攻撃を待っていたのでは「試合」にならないので、従来の防御型のシステムを攻撃型へと変更させたのであった。具体的には相手の攻撃の力を受けて技を行うのではなく、強引に崩して技を仕掛けなければならなくなったわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(44ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー7) 常に一定の満足感を持つこと(知足)で、社会的な失敗(辱)をすることがなくなる。 ここまででは「名誉(名)」を貪ること、「財産(貨)」を貪ること、そして過度な執着、過度の所有について述べられているが、これらにおいては、すべからく「一定の満足感」が持たれることがない。そうであるから満足感が得られないのは過度な貪りの害とすることができよう。ここでは「常に一定の満足感を持つこと(知足)で、社会的な失敗(辱)をすることがなくなる」とある。「知足」とは天が与えてくれた使命(天命)を楽しむことである。その正しきを受け入れて、決して過度な貪愛の思いを抱くことなく、無欲、無為であること、これがつまりは「知足」なのである。そうであるから「知足」の人は、過度に美しい衣服などを求めることなく、ただ衣服は体を温めることができれば良いとする。食べ物にあっても、過度な美味を追求することなく、ただ粗食で足りるとする。見たり聞いたり、言ったり、行動したりすることにおいても、適性な範囲に留まるように自分を制する。そうしていれば、身は安全であり、道のままに生きることができる。世俗にとらわれることなく、心配や困惑を抱くこともない。それはどうしてか。「知足」であればもともとが、社会的な失敗をすることがないからである。強引なことをしないので、無理が生まれることもない。社会的な失敗とは、天がその行為が正しいかどうかを判断した結果である。それは自分が如何に行動したかにかかっている。もし、天命のままに行動していれば失敗したとされることも最後にはそれが正しいことが分かるものである。 〈奥義伝開〉この章で老子はひとつのことを内と外とで説明をしている。「知足」は内的な満足感であり、「知止」は外的な行為である。老子は結果について執着をしないので、それをそのままに受け入れる。これが「知足」である。もし、改善点などがあれば、それはまた次の段階のこととする。「社会的な失敗」がないというのは、失敗と認識しないからである。松下幸之助は「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければそれは成功になる」と言っていたようであるが、まさにそうした考え方を老子は教えている。さらにこれを老子的に言うならば「 失敗したところでやめてしまうから失敗になる。それに構わず続ければ...

宋常星『太上道徳経講義』(44ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー6) 多く持ったならば、必ず手放す時のダメージは大きくなる。 「極端なこだわり」があれば、多大な浪費をしてしまう可能性がある。多くのものを有していると、それによってかえって身を滅ぼすこともある。人は天地の間に生まれて、どのような行為も、それのあるべきが決まっている。本来、富貴である天命を持っていればそうなるであろう。本来が貧しくなるものとして生まれて来ていれば、自然に貧しくなるであろう。どのような行為も、すべて天の理によっている。長生きであるのも、短命であるのも天の理である。あらゆることは天の理なのである。「極端なこだわり」はむだに力を費やすのみである。「多くもつ」者は大きなストレスを覚えることであろう。世間を見ると、天の命を分からずに居る者があるようであり、天の命を守らないで行動している者があるようである。自分は貧しいと思い込んで、少しでも利益が得られそうであれば、人としてのあるべき行動をすることもない。常に不足を思っていて、自分の現状に対して真の理解をすることもなく、ただ不幸であると思っているだけで、真の不幸であることの意味を理解しようともしない。そうであるから、とにかく得られるものは何でも得てしまうので身に危険の及ぶことになる、得ることも、捨てることにも正しきを行うことができず、そうなれば誤って得て、誤って捨てて、後悔も生じるこにもなろう。自分が害を被ることもあるであろう。過度に所有していると失うとダメージも大きくなる。そうであるから道を養おうとする人は、目をして過度の華美を見ることを欲することなく、耳をして乱れた音楽を聴くことのないようにしなければならない。鼻をして特異な匂いを嗅ぐことを好むことなく、舌をして心地よさを貪ることのないようにしなければならない。また身をして、卑しい振る舞いをしてはならなず。意をして、邪な考えを持ってはならない。体の器官が正しく働けば、真気は円滑に流れて、生成の働きが日々になされ、無為、無欲となり、徳性は失われることなく、よく保たれる。精神は天地と一体となって徳は長久で、その道性(道と一体となっている自分本来の心の働き)も太極と同体となる。こうしたところにはけっして過度であることの憂いの生まれることはないのである。 〈奥義伝開〉先の文では精神的な執着を述べ、ここでは物質的な執着について触...

宋常星『太上道徳経講義』(44ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー5) そうであるから極端なこわだりのあるものであれば、大きくそれを失うことになる。 ここまでに述べられていることを、よく考えてみると、「名」や「富」を貪るのは、すべて「欲愛の心」によるものであることが分かる。それが「名」や「富」を貪る心を起こしている。またそれが甚だしければ、自分の心身を消耗してしまうことになる。そして気力を奪われ、最後には自分で正しい判断をすることもできなくなってしまう。そうであるから、ここでは「極端なこわだりのあるものであれば、大きくそれを失うことになる」として、世の人を戒めている。何ごとにあってもやり過ぎるべきではなく、執着の度を越せば、心身の消耗も甚大となる。それはまたひとつの定まった「理」であるとすることができる。道を修している人は、必ず己の身を大切にして、外的な事柄に執着してはならない。自らの性命(根源的な心と体のエネルギー)を大切にして、社会的な栄誉にこだわってはならない。そうしたものにかかわれば、心身に大きな負担となることであろう。 〈奥義伝開〉執着の深いもの程、それを失った時のダメージは大きくなる。あらゆるものは永遠に有することはできないのであるから、そうしたものに深い執着を持っても、所詮は叶わない夢なのである。仏教では「苦」から離脱しようとして、かえっていろいろな「苦」しい修行をしている。キリスト教では本来、考えなくても良い「罪」があるとして悩まなければならなくする。人が生きていく内には多少の「苦」や「罪」なるものが出てくるのは仕方がない、と執着をなくせば、あえてそうした迷信に係る必要も消えてしまう。

道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(4)

  道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(4) 実際のところ大東流のような手の操作による合気が極めて限定した場面でしか掛けることができないのは、合気が本来的に逃げるための技法であるからに他ならない、刀を使わせないように必死で抑えて来るのを解いて、どうにか刀を使おうとするための方法として考案されたのが合気なのである。そうであるから合気だけで相手を投げたりするようなことは、本来的に想定していなかったわけである。剣術に付属するものであった合気が柔術へと展開する中でシステム上の齟齬が生まれてしまう。武田惣角は「柔術は教えるが、合気は教えない」と言っていたともされるが、これは裏を返せば合気を使わなくても柔術を使うことはできるということでもある。瞑想でも武術でも、単にリラックスすれば良いというものでもないし、テンションを高めすぎるのも好ましくない。その場その場で、どのような心身の状態が適切なのかをよく考えて修行する必要がある。リラックスの方法を知っている人には合気はかからない。井上鑑昭はそれを知っていて武田惣角を翻弄したとされている。

道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(3)

  道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(3) 親指と人差し指で作る掌形は、返し技に掛かり難いと述べたが、これはそのまま合気に掛かり難いということでもある。合気は相手の腕を通して身体の中心軸をコントロールしようとするものである。そのため相手のホールドが弱いと掛かり難い。演武の時などに、わざわざ「強く握って」と言われるのは、そのためである。強く掴ませることは一見して合気を掛ける方に不利になる状況を作るように思えるが、実際はその反対でむしろ合気を掛けやすい状態に導いているわけである。実際のところ五指に力を入れて掴ませることで、相手の肘にも力が入るので、より合気を掛けてのコントロールが容易になる。一方、親指と小指だけで掴むと、肘に力が入らないので、合気によるコントロールは切れてしまう。かつて大東流の名人が、合気道を修行している女優に全く合気を掛けることができなかったのも、合気会の呼吸法(合気上げ)では強く掴むことがないからである。