丹道逍遥 TVドラマ「媽祖拝観音」と三教合一
丹道逍遥 TVドラマ「媽祖拝観音」と三教合一
「媽祖拝観音(媽祖、観音を拝する)」は1995年に台湾の中視(中国電視公司)から放送された台湾語による媽祖をテーマにしたメロドラマである。台湾ではケーブルテレビが広く受け入れられており中視のような「地上波」は当時人気がなかったが「媽祖拝観音」は異例のヒットをしたことで新聞などでもよく取り上げられていた。この時期、留学をしており、おもしろく見た記憶がある。今はYoutubeで見ることができる。第26話の終わりに出演者が媽祖像を拝する映像が挿入されているのは大ヒット記念のセレモニーの一場面である。媽祖役は張庭で後に女優として大成する。大陸ともビジネスをして「お騒がせ」報道もあったりしたが、そうしたことは勿論、当時は思いも寄らないことであった。
三教合一とは儒教、道教、仏教が、その真理をひとつにしているという考え方である。こうした言い方は主として道教において唱えられている。それは道教には儒教や仏教のような明確な教えがないからである。主として道教では媽祖のような「神」を拝んで自分の願いを成就させようとする。しかし中国人は倫理的な行為が幸運を導くとする考え方が古くからある。それが「天」の働きであるとされることもあり「天網」や「天佑」という語も見ることができる。これは善行には善報があり、悪行には悪報があるとする思想である。
番組の構成からすれば後に媽祖となる林黙娘が「道教」を象徴しており、その実践する善行は社会的倫理の実践を謳う「儒教」そして、それらを通して内的な完成を得るのが「仏教」というイメージとなろう。つまり林黙娘が儒教的な社会実践を通して内面的に成長して媽祖となるという構図が伺えるわけである。
媽祖信仰は中国全土は勿論、東南アジアでも広く見ることができる。特に盛んなのは台湾で媽祖を主人公としたドラマも多く作られている。ただ、そのほとんどは媽祖の霊験を示すものである。一方「媽祖拝観音」は媽祖となる前の娘時代の林黙娘が主人公となる。そうであるから自身が特別な霊験を示すことはなく「聖女」として振る舞うだけで、周りの人を救済しようとするのであるが、それを妨害しようとする勢力に対抗する術もない。そこを観音信仰により得た観音の霊的な助けによって人々の救済を果たすわけである。
もともと媽祖信仰は十世紀頃に東シナ海の孤島であるビ州島に生まれたとされる林黙娘から始まる。現在、その詳細な「伝記」も伝わってはいるが、そのほとんどは宗教的な粉飾によるもので、何が真実かはよく分からない。ただ若くして海に出て行方不明になったとされる。宗教的には昇天したとする。番組も最後はそのイメージで終わる。
媽祖以前から中国南方の海岸部では「海洋女神」の信仰が広くあったようで各地に神名を持って、それぞれに信じられていた。それが次第に媽祖信仰が広がるにつれて統合されて、全てが媽祖の働きのように語れるようになったわけである。一方で観音信仰も女神信仰として中国では広がって行った。日本でも観音は女性的に捉えられているが、その信仰は十一面観音や如意輪観音など人の形ではない多臂多面(腕や顔が多い)であることも多いために人間の女性そのものといったイメージとは若干、乖離している。しかし中国では全くの人と同じ形の観音(聖観音)が主体なので、より女性のイメージが強いと言える。このため南方の沿岸地域では「海洋女神」と観音信仰とも習合が進んで行った。こうして「海洋女神」信仰というベースにおいて媽祖と観音の信仰が融合して行くことになる。そうした媽祖信仰の構造が「媽祖拝観音」でもそのままに踏襲されているわけである。
不思議なことに日本では媽祖信仰を見ることができない。そればかりか道教信仰そのものも受け入れられることがなかった。古代から例えば朝に呪術を唱えるなどのことは行われていたようであるが、それは「信仰」としてではなく「科学」としてもたらされたのであった。五行思想や北斗七星に長寿を祈るなどのことも全て「科学」として受け入れられており、道教の神像を祀るようなことはなかった。媽祖も沖縄で祀られている他は水戸藩で徳川光圀の頃に入って来たが広まることはなかった。
「媽祖拝観音」に特徴的に見られるのは媽祖信仰のバックに観音信仰のあることである。そうなるとつまるところ媽祖信仰とは観音信仰のひとつの形ということにもなるのであるが、中国では運気を良くしようと思うのならば「善行」をしなければならないとする考え方がある。これは易を代表する語に「元亨利貞」(乾卦)があることでも分かろう。それは「元(おお)いに亨(とお)る。貞(ただ)しきに利(よろ)し」で「(この願いは)全く叶う。正しい行為をしてれば叶う」という意味である。後には功過格なども作られて善行(功)と悪行(過)のそれぞれを点数化して計算することも行われるようになる。それを比較してマイナスにならないように、できるならばプラスを多くするようにするわけである。そうすることで天なり、神仏なり、鬼神(先祖の霊)なりの助けが得られて、良い人生を送ることができると考えるのである。
三教合一に似た教えに日本では唯一神道がある。唯一神道は中世に吉田兼倶(かねとも)が唱えた神道で、神道が「根本」、仏教が「花実」、儒教は「枝葉」であるとする。ここでは神を信じ、仏を信じるという点が重視されていて、儒教は単なる日常の行動規範として重んじられてはいない。日本人は倫理ということを、それ程重んじては来なかったのである。一方、中国では儒教の「仁」や道教の「善」など日常の社会規範を越えた倫理のあることを重視していた。そうした視点が仏教にもあるので三教が合一しているとするのである。その根底にあるのは「理」である。一方、信じて助けを求めることを第一とする唯一神道の根本にあるのは「情」である。日本の倫理観のベースにある「世間体」も、そうした「情」によるところが大きい。
媽祖は「天上聖母」とも称される。これは観音と習合した姿をいうものでもある。ただ願いを叶えて欲しいという「情」の信仰が普遍化して行く中で「理」としての倫理観を取り入れて現在の媽祖信仰が形つくられている。