宋常星『太上道徳経講義』第八十一章
宋常星『太上道徳経講義』第八十一章
(1)この章で『老子』は終わる。この章は三つの部分で成り立っている。序としての一段があり、それに続いて聖人から一般の人のことに及ぶのが第二段である。天の道から聖人の道へと至るのが第三段となる。
(2)これらのベースとなるのは「道は言語をしては表すことができないが、言語をもってしてしかそれを説明することもできない」ということである。
(3)つまり道はある種の超越的な理解をするしか知りようのないものなのである。
(4)道は言語をして表そうとすれば、その行為そのものが道からの乖離となる。
(5)(古代の思想家である)楊朱、墨子、禽滑釐、宋子、尹文子、彭祖、彭蒙、田駢、慎到、恵施、恒タン、公孫龍、黄繚などが道について述べているが、それぞれ言う事が違っていて同じではない。そうであるからどれかを軽々に信ずることもできないし、どの説が妥当であるのかも分からない。
(6)ために老子は『老子』五千言をして、それ以上を述べることはしなかった。
(7)それで聖人や天の道について一応の説明をして、それで良しとしたのであった。
(8)道について老子は多くを語ってはいない。もし道について多くを語ることで、それを明らかにできるのであれば老子はそうしたであろう。しかし、そうではない。いくら言を費やしても道そのものを明らかにすることはできないのである。
(9)この章では、道を言語をして説明するのは難しいことではないが、それによって道そのものが明らかになるわけではない、ということが述べられている。
(10)つまり道についての知識がいくらあっても道そのものを知ることはできないということである。いくら多言を弄しても道そのものを語ることはできないのである。
1、本当のことを言っていると、それは嘘のように聞こえる。嘘を言っていると、それは本当のように聞こえる。好ましい行為は不適切であるように見える。不適切である行為は好ましいように見える。多くのことを知っている人は何も知らないように見える。何でも知っているように見える人は、本当は何も分かっていない。
(1−1)言っていることに事実が対応している、言っていることが実現する、そうであれば言われたことは本当の事ということになる。
(1−2)真実の言葉は一語一語に間違いがなく、全く余計なものは含まれていない。適当に聞き良いような言葉が混じっていることはないのである。そうであるから、それはつまりは心地良い言葉ではないことにもなり得る。
(1−3)もし巧みな聞き良いことだけが語られるようであれば、それは嘘が含まれていることであろう。
(1−4)そうした言葉を追究しても真実を探すことは難しい。このようなことを「本当のことを言っていると、それは嘘のように聞こえる。嘘を言っていると、それは本当のように聞こえる」としている。
(1−5)よく「天の理」を明らかにしようとして語られる行為や道と一体であることについて語る行為は「好ましい行為」といえる。
(1−6)「好ましい行為」は必ずあらゆる人の本来の心と一体である。そうであるから、むやみに他人と争うことがない。
(1−7)相手を操ろうとして、いい加減なことを言う中に真実はない。道と一体であれば自然にそうした行為は行われない。
(1−8)あえて他人を言いくるめようとして、多弁を弄する。そうして相手はどうしようもなくて納得させられてしまう。それはただ言いくるめているだけであり、これは嘘を本当としようとする行為でもある。こうしたことを「好ましい行為は不適切であるように見える。不適切である行為は好ましいように見える」としている。
(1−9)よく理解して、いろいろなことを明らかに知ることができるのが「真知」である。
(1−10)本当の知を得るには必ずしも遠くまで出かけて知見を広める必要はない。
(1−11)真実の知は、見えたり聞いたりできるレベルのうわべには無いからである。
(1−12)真実を知る者は、必ずしもうわべの知識の多い者ではない。
(1−13)多くを知ろうとする人は知らないことのあるのを恥と思う。そうしてあらゆることを知ろうとする。また多くを知っていることを誇る。しかし、こうしたことでは心と体(性命)の真実を知ることはできない。
(1−14)それを「多くのことを知っている人は何も知らないように見えるものである。何でも知っているように見える人は、本当は何も分かっていない」としている。これらはよくある害悪であるので、あえてここで述べられている。
2、聖人は自己の行為にこだわることはない。もし自分の行為を自分ではない他人の為に行うのであれば、それは多く余分なことをしなければならなくなる。しかし自己と一体である他人のためにするのであれば、それは余分に多くを行う必要はなくなる。
(2−1)およそ人は聞き良い言葉、適切に見える行為、広い知識を良しとするが、これらは全て意図をもって行われている。それは自分に何らかの利益を得ようとして行われるのである。
(2−2)つまり他人より優位に立とうとして為されるのである。あるいは自分だけを特別と思いたいのかもしれない。他の人と同じでありたくないと思ってのことであろう。
(2−3)しかし、こうしたことは強いて続けようとしてもできるものではない。
(2−4)つまり、そうした人は「自分だけで生きていくことはできない」という道理が分かっていないのである。
(2−5)何かを行って行き詰まることがないのは自他の区別を考えない時である。聖人はこうしたことを知っている。そうであるから自己にこだわることはないし、自分だけを特別と思うこともないのである。
(2−6)つまり「他人」という視点を持たないということである。自分だけを特別と考えることなく、自他の区別をしない。自己のための行為は他人のためでもあり、相手のための行為はまた自分のための行為でもあると考えるのである。
(2−7)こうして互いが「行為」を共有することができれば、そこには必ず優れた点があるものである。
(2−8)他人の「行為」が自己の「行為」であるとするならば、自分はそれを行わなくても為したことになる。
(2−9)こうしたことを「自分の行為を自分ではない他人の為に行うのであれば、それは多く余分なことをしなければならなくなる」としている。「多く余分なことをしなければならなくなる」とは、自分が行うこと以外に他人にも行わなければならなくなる、からである。自分が他人のための「行為」をも行わなければならなくなるということである。
(2−10)そうなれば他人は自分が行った「行為」の分は、それだけ多くを得ることになる。つまり結果として、その人は多くを得ることになるわけである。多くが得られるのは他の人がそれを行うからである。こうであれば他人は一人ではないので、その「行為」は限りなく多くなり得ることにもなる。
(2−11)他人に自分の「行為」を与えるには自分が、それだけ余分の「行為」をしていなければならないわけで、そうであるから自分が多くを行えば行う程、相手も多くを得ることになるわけである。
(2−12)しかし、ここでは「自己と一体である他人のためにするのであれば、それは余分に多くを行うことはなくなる」とある。ここで言っているのは自分の「行為」は全て自己によって行われているのであるが、それは自分だけが有している「行為」とは思わない、ということである。それは自己と他人との区別をしないからである。
(2−13)そうであるから自己の「行為」は他人の「行為」であって、そこに区別は考えないわけである。
(2−14)そしてこうした自分と他人とで「行為」を共有はすることは、自分に不利であるとは考えない。これが聖人と同じということである。
3、天の道は益を与えるのみで害をすることはない。聖人の道は行っても争うことはない。
(3−1)聖人が自己の行為にこだわらないことについては、既に先に述べられている。それは当然のことでもあり、その「理」は天の道においても見ることができる。
(3−2)天とは無為であり、全ての物に影響している。その働きは一日も止むことはなく、その生成の働きも極まることはない。
(3−3)常に生成の働きが生じており、それはあらゆる物に及んでいる。天は全てを利する。
(3−4)ただ利があれば必ず悪もある。もし自分が何かを利すれば、必ずその負担を負うことになる。
(3−5)万物を天が利しているのは明らかなことである。これは古今東西、変わることはない。天の運行は昼夜を違うことなく、天はあらゆるものを利している。
(3−6)しかし天が害(負担)を受けることはない。
(3−7)それは天がその「行為」にこだわらないからである。そうであるから天は物を利しても、その負担を受けることはないのである。
(3−8)聖人の道は、天の道でもある。
(3−9)聖人は無心であり民を正す。
(3−10)この場合に聖人は「警告」を与えることになるのであるが、人々はそれが自然に行われるので、聖人の是非を正すのを喜んで受け入れる。これが聖人の行為である。
(3−11)この場合に聖人の「行為」が有為であれば必ず争いが生まれる。こうした「行為」は、どのようなものでも聖人の行為とはならない。
(3−12)聖人はあえてそうすることなく人を導くのであり、こうした柔らかな心が聖人にはあるのである。こうしたところにどうして争いが生まれることがあろうか。
(3−13)物が物としてあるがままにあるようにする。それが自然であるからである。
(3−14)争いがないことをして聖人の行為がどのようなものであるのかを深く知ることができる。聖人が自己の行為にこだわらないということが、より深く分かるようになる。
(3−15)自己の行為にこだわる人は、自己の行為が「公」のものとなることはない。
(3−16)その語ることは聞き良いものであっても、多くの事を知っていても、有為をして行われたことは天の聖性にもとることになる。他人に益することがなく、また自己にも益することもない。
(3−17)『老子』はこの章をもって終わる。
(3−18)『老子』に記されている奥深い教えを理解できている人は「自分の殻」を打ち破ることのできている人である。それは自分と他人が一体であることが分かっている人である。
(3−19)何かを他人が得れば自分も得ていることになる。「自分の殻」を破ることができなければ、必ず自分と他人は別になる。失われるべきは自己と他人の「区別」である。これが老子の時間や地域を越えた教えである。
〈奥義伝開〉
これで『老子』八十一章は終わる。
最初に述べられているのは第一章と同じで「道」と思われているものは「道」そのものではない、というように一見して分かっているようなことが真実ではない場合のあることを指摘する。次は「無為自然」の根本にあるのは自他の区別がないということであることが指摘される。これは荘子の言う「万物斉同」と同じでもある。そして最後は天の道と聖人の道が同じであるともしている。これにより最終的に老子は「聖人」という自己完成の道を模索していたことが分かる。それは「争い」のない「共生」の世界である。もし人類に意識の進化というものがあるなら未来においてこうした「共生」の世界は実現するかもしれない。
これまで注釈を見てきた宋常星は清朝の文人である。その『老子』の解釈は儒教道徳をベースにして社会の矛盾を内的に解決しようとするものである。つまり「受け取り方」で対応しようとするわけである。搾取があっても要は「とらわれなければ良い」と教えるわけである。こうした生き方は中国人に広く見られるものでもある。一方で『老子』の持つ無政府主義的な思想については、それは太古の聖なる王の頃にあった夢想的な世の中であるとするに過ぎない。これは当時としては非常に「常識的」な考え方でもあると言うことができるであろう。