姚姫伝『老子章義』自題三則
姚姫伝『老子章義』自題三則
『老子』には六朝(三世紀〜四世紀頃)以前にも多くの注釈がなされている。その中で伝わることが無いものに「河上公章句」がある。これは現在、多く偽物が流布しているが、何も『老子』を理解し得ていない者が作っており、それを神仙に仮託したりしたものもある。唐の頃には皇帝は老子の子孫とされていて『老子』は正式なテキストとなっていた。そして、そこにある「神仙の術」を最重要視していた。このため「河上公章句」が偽作されたのである。こうした注釈は一見して適切であるように感じられるかもしれないが、根本的な部分において誤りがある。そうではあるから仙術に傾倒していた唐の皇帝は「河上公章句」の都合のよいところだけを取って、その全体の是非についての詳しい論考に及ぶことはなかったのである。ただ現在までこの注釈は広く読まれている。
宋の蘇子由は深く『老子』を研究した。蘇は章分けをして解説をしているが、それでは『老子』の本義が分からなくなってしまう。加えて、よく意味が分からないところにも無理な解釈をして、分かったように見せかけている。また従来の明確でない解釈を改めようとしているが、これも必ずしも妥当とはいえない。またその解釈は短い部分だけをしていることもあるし、数百字に及ぶ長い箇所を区切りとしている場合もあるが、もし『老子』を正しく解釈しようとするのであれば、全体を読むべきで、余計な注釈を差し挟むべきではない。蘇子由のものも読むには当たらないであろう。
『荘子』には老子のことも書かれている(雑編 天下)。それには老子は「他人は皆、先を取ろうとするが、自分は後を取る。これは『天下の後に居る』ということである。他人は皆、実を得ようとするが、自分は虚を取る。虚は無限であるからである。限りが無いからである。限りが無いから極まることもない。自分は行動しても疲れることがない。それは(虚であり)無為であるからである。こうした自分を笑う者は皆、福を求めようとする。しかし自分はそうではない。福を求めなくても良いと思う。そうすることで(禍福を離れて)不幸を免れることができるからである」と「無為」を述べたとあるが、これは全くの誤りであろう。
以上「河上公章句」の偽物であることは劉知幾も述べている。蘇子由のことは多くの人が知っているであろうが、知幾のことはそれ程、知られてはいまい。
乾隆四十八年六月八日 惜抱居士 敬敷書院にして記す
今回より姚姫伝の『老子』の注釈である『老子章義』を読むことにする。姚姫伝は清の頃の人で本名は姚ダイ(鼎の上に乃)で安徽省の人。『老子』を儒教的な立場から読んでいる。ここにあるのは、その冒頭部分であるが「河上公章句」や劉子由の「老子解」それに「荘子」を批判している。三則は三つの視点から姚の立場を説明するもので儒教をベースとした解釈であるから「河上公章句」の仙道をベースとする解釈はよろしく無いのであり、章を分けたり字句を細かく説明しようとする「老子解」も全体を見ていないので取るべきではないと否定的である。そして最後に「荘子」に引く老子の言葉は道家的であるのて、本当とは思えない、とする。姚は儒教的な理解が適当であると考えるからである。つまり、ここで述べられているのは、
一則、仙道的な解釈は不適切である。
二則、細部の解釈にこだわるのではなく、全体としての要旨を把握することが大切である。
三則、道家的な言説を老子の言葉とするべきではない。
といった立場である。
文中に出ている蘇子由は蘇轍(てつ)の方の名で知られてるであろうが、十一世紀の宋の時代の文人である。蘇東坡の弟で多くの著作があり「老子解(道徳経解)」は現在の老子の注釈のベースとなっている。また劉知幾は七世紀、唐代の文人で、主として歴史関係の著作を多く残している。