道徳武芸研究 西郷頼母の「密伝」〜知っているか?!合気の「技」が試合に使えないことを!〜
道徳武芸研究 西郷頼母の「密伝」〜知っているか?!合気の「技」が試合に使えないことを!〜
ここで言う「試合」とは競技としての試合と実戦としての試合の二つの意味がある。こうした形稽古以外の自由度の高い攻防において合気道の「技」が全くと言って良い程、使えていない。それは何故か、ということであるが、そのことは既に西郷頼母が密かに伝えていたことでもあったのである。
柔道でも空手でも基本的には形稽古の技が乱取りや自由組手で使えている。こうしたところで問題となるのは競技試合に強くなるのには形の稽古よりも、試合に向けた稽古をした方が良い、という点で、そうなると形稽古の意義は何処にあるのか、というものである。しかし、それは当然のことであって、ルールのある競技として行うのであれば、それに合わせた稽古をするのが最も効率的であることは間違いのないことであろう。そうではなく大東流や合気道の場合には、ある程度の自由な攻防においてさえ「技」が殆ど使えないという点にある。有名な「王者の座」では藤平光一が駐留軍人と思われるアメリカ人を相手にするが、何とか力ずくで制することができたのは柔道の技のような動きであった。その後、植芝盛平も技を掛けようとするが、なかなかうまくは行っていない。
合気道の競技「試合」化は早く富木謙治によって行われた。富木は柔道の出身であり、基本的な考え方は柔道にあるとすることができる。そうしたこともあって植芝盛平が認めていなかった競技「試合」化に意義を見出していたようである。植芝はその宗教的な理念から晩年は特に「争わない」ことを重視していたこともあって、合気道の中核団体である合気会を始めとして殆どの団体で試合を行うことはない。現在まで一部に「試合」の試みもなされているが、なかなか合気道で練習している技を使うことができないでいる。また富木流でも試合を行おうとすると当身技と関節技の分離が見られる。本来、関節技は当身、投げの後に来るもので柔道では投げから固め技に入る。また投げ技も実戦では相手を当身である程度、制してからでなければ掛けることは難しい。まして関節技を最初から掛けることは、ほぼ出来ない。ここに関節技を主体とする大東流や合気道の実戦における使い難さがあるわけである。またこのために「合気」という特殊な技術が必要とされるようにもなっている。こうしたこともあり当身技を重視した関節技の体系を考案したのが少林寺拳法であった。ただ少林寺拳法での試合は当身のみのようである。これは関節技をいきなり掛けることが困難であるためで、関節技で試合をしている団体の多くは従来の合気道の技の他に(柔道に近い)試合用の技を考案している。
どうして合気道の技(関節技)は、これほどまでに試合で掛けることができないのか。また形稽古では見ることのできる「合気」が全く使えていないのはどうしてなのか。実はその答えは西郷頼母によって大東流の始まりの時から示唆されていたのである。それは武田惣角に大東流を広めることを許した書付のところに以下のような歌のあることで分かる。
「知るや人 川の流れを打てばとて 水にあとなるものならなくに」
これは「知っている人が居るであろうか否、あるまい。川の流れを打って、そこに跡が出来ることのないことを」という意味である。一般には剣術家であった惣角に「剣術の時代ではない。柔術で生きよ」と教えた歌とされている。それは川の流れを「打つ」とあるので、これが剣で川の水に切り込んでいるイメージがあって剣術云々ということになっているのであろうが、そうであるなら冒頭に「知るや人」としているのが気になる。水面を打った後の波紋(=あと)は、しばらくすれば消えることは誰でも知っているからである。
この歌が惣角を大東流の「本部長」として認める書付にあることからすれば、これは大東流の奥義を教える道歌と見るのが正しいのではなかろうか。つまり「合気」の教えと考えるべきであろうと思うのである。これが「合気」の極意であるとするなら「知るや人」という問いかけも頷くことができよう。つまり「合気」の分かっている人は殆ど無いのではないか、ということであるからである。
合気について植芝盛平は「愛」であるとか「和合」であるとかの説明をしている。つまり相手と一体となるのが合気であるということである。これは大東流でも変わりはないし、柔術でも「相手に押されたら、そのままに引く、相手が引いたら、そのままに押す」のが「柔(やわら)」の極意とされている。ただ、これでは相手の攻撃を避けることはできるが、相手を投げたりして反撃することはできない。それには「柔」だけではない「術」が必要となる。そうであるから「柔+術」なのである。合気道ではこれを「合気(引力)+術」として、これらを総称して「呼吸力」とした。
こうした「柔」「合気」の部分が頼母の歌では「水」に例えられている。攻撃を受けてもそれをかわすだけであるから、そこでは何も生じていないかの如くであるわけである。こうした状態で競技試合をしても互いがすれ違うだけで勝負にはならない。また柔術でも合気道でも「術」を使う時には「柔」や「合気」を同時に使うことはできない。こうしたシステムをよく知った上で頼母は関節技の体系である大東流はあくまで「術」であって、それを通して「合気」は習得されるべきことを道歌で教えているわけである。
一般的な柔術は「術」の完成を最終目的とする。初伝で「術」のおおよそを学び、中伝で「柔」を会得して、奥伝で「柔」の含まれた「術」を完成させるわけである。これは大東流でいえば「柔術」「合気之術」「合気柔術」となるのであるが、大東流では「柔術」から「合気柔術」そして「合気之術」となるとされる。ただ現在の伝承において「合気柔術」と「合気之術」の明確な違いを見ることはできない。しかし「合気之術」が最後に来ることは、大東流というシステムが「合気」の習得を最終目的としていることを示していることは分かる。また盛平が合気道と称したことも呼吸力の鍛錬を通して合気の習得が目指されたものと考えられるのである。
関節技は護身というより相手を取り押さえる必要のある警察のような部署で必要とされる技術である。中国武術では擒拿と称するが、武術家がこれを修練するのは、体の仕組みを知るためである。大東流が最終的に「合気」の習得を目的として関節技を主体としていることからすれば、それは実戦に使うというより「合気」の習得を前提としたものと考えることができるわけである。頼母の道歌が教えているのは、真の大東流の完成は「合気」にあるのであり、それは互いがすれ違うだけの何も起こらない状態であるということなのである。
それはまさに太極拳の双魚図のように陽「魚」が来れば、陰「魚」はかわす、というものである。この段階では既に武術の攻防のレベルは超克されている。結果として「合気」のみでは相手を制することはできないわけで、もし相手を制しようとするのであれば「術」の技法がなければならない。
こうした頼母の「密伝」ともいうべき教えは出口王仁三郎の助けもあって盛平によって一部を解くことが可能となった。そして合気道では惣角が関節技を実戦に使おうと考案した大東流の関節技の多くは捨てられた。またこうした「術」を超えた「合気」の世界のあることは針ヶ谷夕雲も気づいており「相抜け」のイメージを会得していた。この「相抜け」は互いがすれ違うものとして、双魚図をイメージすればより分かりやすいのではなかろうか。合気道の関節技を盛平は「気形」と称していたがまさにそうなのである。これらは「合気」を習得するためのものであり、「合気」が会得されれば争いそのものが生じなくなってしまい、そもそも「術」の必要性も無くなってしまう。「合気」を柔術技法の補助(崩し)として使うことも、関節技を実戦に使えるように工夫をすることも意味のないことであると頼母は道歌で始めから教えていたのであった。