宋常星『太上道徳経講義』第七十八章
宋常星『太上道徳経講義』第七十八章
(1)人の心や天の道は本来、平坦であるとされている。
(2)そうであるから本来的は剛柔はなく、強弱も存していない。
(3)しかし人の心には自ずから私欲が生ずるものである。そうなると剛柔や強弱が生まれることになる。
(4)これらを老子は論じているのであるが、老子は剛については必ず柔が剛に勝るとされ、強では必ず弱が強の勝るとする。そこにおいては剛や強が一般的には勝っているとされていることは顧みられることはないようでもある。
(5)確かに状況によっては柔や弱が、剛や強に勝ることがある。たとえば水である。水の持つ「理」を知っていれば、老子の言葉は、そうした「理」を敷衍したものであることが分かろう。
(6)こうした水の持つ「徳(注 理の働きが徳)」をどうして良しとしないことがあろうか。老子の教えを尊ばないことがあろうか。
(7)この章では世の人が思っているように必ず剛は柔に勝り、強は弱を凌ぐばかりではないことが述べられている。その逆もある得るのであり、それが「無為自然の道」であることを知らなければならない。つまり水を例えとして、柔が剛に、弱が強に勝る「理」のあることを老子は説いているのである。
1、この世で最も柔弱であるのは「水」が第一であろう。もし水が堅強なるものに向かって行ったとしても、それを突き破ることはできない。これはどうすることもできないことである。
(1−1)この世で初めに生じたのは水であるとされる。水は緩やかな性質を持っている。次に火が生まれた。火はエネルギーに満ちたものであった。次いで木が生まれた。木は成長をするものである。その次には金が生まれた。金は堅いものである。そして土が生まれた。土は大地であり偉大なものである。
(1−2)この中で火、金、木、土は堅強であり、水が最も緩やかである。最も柔弱である。つまり「この世で最も柔弱であるのは『水』が第一であろう」ということである。
(1−3)水は柔弱を性質として持っているので、堅強に対して勝ることはできない。柔弱が堅強を攻めて勝ることはできないのである。
(1−4)火が水に対すれば、水は蒸発させられてしまう。木が水に対すれば、水は吸い上げられてしまう。金であれば、金は水より重いので水はそれを持ちこたえるとができず、金は沈んでしまう。土であれば、水は厚い土の中に染み込まれてしまう。
(1−5)ただ一方でいくら堅強な物であっても、水が染み込んでしまうことがある。染み込んで物の表面に泡が立っていることがある。それに石の器でも、磁器でも、鋼鉄でも、水は浸透してしまうことがある。
(1−6)つまりこれは水がどのような堅強なる物に対しても勝っているからである。
(1−7)もしその反対を考えるとしても、火、木、金、土は水に浸透することはできない。その点においては火、木、金、土より水は勝っているのである。
(1−8)水は柔弱である。かりに水が攻めても、柔弱である水が堅強である物に勝ることはできない。これを変えることはできないわけである。
(1−9)しかし水は「至柔」である。「至柔」とは水が天下の「至剛」を有しているということである。そうであるから至弱は、むしろ天下の至強となるのである。
(1−10)つまり剛強であるものが、常に剛強であり続けることはできないのであり、柔弱が剛強に勝ることも必ずあるのである。
2、そうであるから柔は剛に勝るのであり、弱は強に勝っている(と言うことができる)。しかし世の人はこうしたことを知っては居るが、それをどう実践するかを知っている人はこの世には居ない。
(2−1)柔が剛に勝り、弱が強に勝る、その「理」は確固たるものである。
(2−2)これを水で見てみると、その「理」の正しいことがより明らかとなろう。「世の人はこうしたことを知っては居るが」とは、皆が体験的には知っているということである。
(2−3)柔が柔であることで剛に勝つことができるのは、剛に固着しないからである。
(2−4)弱を養う場合には強を頼むことはない。
(2−5)およそ柔であれば第一に物に接して、その形を変ずることができる。
(2−6)およそ弱であれば第一に事に当たって、それに応じて変じて強となることでができる。
(2−7)どうして柔弱であり続ける必要があろうか。
(2−8)こうしたことを「世の人はこうしたことを知っては居いるが、それをどう実践するかを知っている人はこの世には居ない」としている。
3、ために聖人は「国の垢を受けている者は社稷の主と称されている。国の不祥を受けている者は天下の王と称されている。正しい言は間違っているように聞こえるものである」と言っている。
(3−1)ここで述べられているのは、聖人の言うことを借りて、これまで述べられていることの意味を明らかにしようとしている。
(3−2)「国の垢」とは「内外の不穏分子」「反乱分子」のことである。国法を守ることなく、不忠、不孝の者である。こうした者達はすべて「国の垢」とすることができる。
(3−3)民衆が反乱を起こしたとしても、それは民の不徳とすることはできない。
(3−3)それは国王の罪であり、その罪を民に帰することは適当ではなく、必ず自己が負わなければならない。これが「国の垢を受ける」ということである。
(3−4)「国の垢を受ける」とは、国に対して責任を持つということであり、その国の社稷(祭祀)を守ることができるということである。つまり「社稷の主」であるということなのである。以上が「社稷の主」の意味である。
(3−5)「国の不祥」とは、日照りであり、長雨であり、伝染病やイナゴの害である。それらによって民は飢えて流浪しなければならなくなる。草木は蔓延(はびこ)り、獣や魚は災を起こす。これらは全て「国の不祥」である。
(3−6)命運の至るところ、あるいは人心の赴くところ、それらは全て国王の責任であり、他の何のものでもない。
(3−7)運命の致すところでも、民によるものでもない。そうであるから国王の罪はそれを自己で負わなければならないのである。これが「国の不祥を受ける」ということである。
(3−8)「国の不祥を受ける」とは、つまり天下の赴くところへの責任を負うということである。
(3−9)「王」とは天下を持つ者である。そうした存在を「王」という。つまり、それは「天下の王(注 あらゆる出来事は王のあり方によるとする考え方)」なのである。
(3−10)聖人の語っているのは、こうしたことであり、それは間違いのない言葉でもある。
(3−11)「社稷の主」とは「天下の王」でもある。つまりは「至尊至貴」な存在でもある。
(3−12)そうであるから(至尊至貴な存在が)「国の垢を受ける」「国の不祥を受ける」とは、これは(国内に起こる全ての出来事に王が責任を持つということにおいて)確かに正しい言なのであるが、一般的には(国の乱れは民により、自然の不祥事は天地によると考えられているので)間違っているように聞こえるものである。
(3−13)つまり正しい言葉は、その一面だけを見てしまうと間違っているように聞こえるものなのである。
(3−14)聖人の言を知ることは、今の天下にも後世の天下にも大きな利益がある。
(3−15)それは「柔が剛に勝る」「弱が強に勝る」といったことと同じである。
(3−16)そうであるからどうして「剛強」をのみ頼むことがあろうか。
(3−17)この章では、先ずは水を例えとして、そして最後に聖なる言葉を紹介して、その述べる意をまとめている。この章で述べられている全ては戒めでもある。
〈奥義伝開〉
この章では「剛柔」「強弱」の「どちらが勝るか」と問うた場合に、一般的には「剛」「強」と答えるであろうが、「柔」「弱」の方が勝っていることもあることを指摘する。それは、この章の最後に「正しい言は間違っているように聞こえるものである」ということを「剛柔」「強弱」をして説明しているわけである。
この章で最も重要なのは「聖人の言」である。そこでは「国家」という社会幻想的な仕組みにより人々を収奪する者たちの「力」とは何かが述べられている。それは「社稷=権威」と「王=権力」である。しかし「権威」も「権力」も「垢」であり「不祥」なもの、つまり収奪者によって作り出されてた「社会幻想」に過ぎないのである。本来、王の権威も権力も存しているのではなく、ある種の人々の思い込みによって何か確固としたもののように捉えられているに過ぎないのである。そうであるからそうした「権威」も「権力」も容易に「無」に逆転させることは可能なのである。これが「革命」である。老子は「剛柔」「強弱」の逆転の「理」の正当性から社会における「革命」が当然の「理」として存することを述べているのである。