道徳武芸研究 少林「心意把」を考える
道徳武芸研究 少林「心意把」を考える
かなり前になるが少林拳の奥義の技として少林心意把なるものが話題になったことがある。日本では『拳児』(1988ー89年)でも取り上げられて広く知られるようになった。現在では動画サイトにいくつもの演武が挙げられているので、その実態を知ることもできる。ただ少林心意把なるものは古い時代の文献には見ることができないようである。また心意把なるものが、なぜ少林拳の奥義であり、それが現代に至るまで知られることが無かったのか。日本では陳家太極拳から始まり八極拳と、一般的な中国武術のイメージを形作っていた太極拳に比べて、より激しい動きのものが「実戦的」と見なされて、八極拳を凌ぐものとして心意把が取り上げられるようになった経緯もある。ただ激しい動きは動作が大きくなるので当てるのが難しくなるので、それが見た目ほど実戦的であるわけでもない。
心意把と聞いて思い浮かぶのは形意拳である。形意拳を実質的に始めたのは李農然であって、それ以前は「心意拳」と称されていた。形意拳は河北派、山西派、河南派(心意六合拳)に分かれて伝えられているとされているが、河北、山西派は李農然の形意拳の系統であるが、河南派はそれ以前の心意拳の系統に属する。李農然が学んだ戴氏心意拳も河南派と同じ形意拳以前の心意拳である。そうであるから形意拳が河北、山西、河南の三つの派に分かれているというのは正しくなく、形意拳は河北派と山西派があり、河南にはそれ以前の心意拳(心意六合拳)が伝わっているとする方が妥当である。これらの中で心意把につながるのは四把であろう。形意拳では鶏形四把と称し、心意拳では四把捶というが套路は大体において同じである。少林心意拳もほぼ等しいということができる。つまり少林心意把と心意六合拳の四把捶、形意拳の鶏形四把は同じ系統の套路とすることができるわけである。
こうして見ると心意把は形意拳につらなる套路であることが分かる。そうであるのにこれが少林拳の奥義であるというのは、どういうことなのであろうか。それは形意拳が、その源流を少林拳に置いているからに他ならない。形意拳の源は達磨が伝えた「内経」にあるとするのである。ただ一般的には達磨が伝えたのは「易筋経」と「洗髄経」とされていて、「内経」なるものを見ることはできない。また近代以前の少林寺の武芸の中心は棍術にあった。一般的にも中国で拳術が主となるのは近代以降である。現在、少林心意把として確実な系譜がたどられるのは呉古輪(1820〜1917年)からである。種々の背景を勘案するなら、おそらく少林心意把を創始したのは呉であろうと思われる。
少林心意把の伝承は以下のように説明されている。呉古輪は幼くして少林寺に入り寂勤と称するようになる。ここで呉はいろいろな武術を学んだのであるが、心意把は海発、湛謨などから教えを受けた。40歳の時に清が禁武政策を取った(民間での武術の練習を禁じた)ために少林寺を出る。これ以降、心意把は息子の呉山林に伝えられ、山林は張慶賀に伝え、慶賀は丁洪本と呉南方に伝え、洪本は出家して徳建となって少林寺に入った。ここに再び心意把は少林寺に戻ることになったとされる。つまり現在の少林寺の心意把は少林寺に伝承されたものではなく、後に入って来たものなのである。
少林心意把には「心意把」の他に「虎撲把」「閃戦移身把」があるとされている。これらは三つの套路ともいわれるし、ひとつの套路の別称であるともされる。このような「把」を付ける套路は心意六合拳に見ることができる。心意六合拳では「単把、十字把、双把」などの「把」を付した套路がいくつかある。こうしたことからして少林心意把が心六合拳の四把捶をベースとしていることは明らかである。つまり少林心意把は形意拳の伝説と、心意六合拳の技術をベースに作られたものと思われる。