丹道逍遥 鎮魂帰神と「託宣」と
丹道逍遥 鎮魂帰神と「託宣」と
人は往々にして一般には知られることのない「知」を得たいと思うものである。隠された真実や未来を知ることは、それが「力」ともなる。古今東西いろいろな方法が考えられて来たが「託宣」「神託」もそのひとつである。およそ神道の核心はどこにあるのか、と言うならば、あるいは、それは「託宣」を得ることにあるということができるかもしれない。たださすがに今日では神道に託宣を求める人は特に神社神道ではないと思われる。ちなみに現在の神社神道では祈祷が中心となっているが本来、祈祷は陰陽師が行っていたもので、神社では託宣を得ることが第一であった。
これは神名に「命(みこと)」が付されることでも明らかで「みこと」は「御言」であり「尊い言葉」つまり「神からの言葉=託宣」をいうものであった。そうした尊い言葉を伝えてくれる神が「速須佐之男(はやすさのお)の神」であり、その授ける言葉が「速須佐之男の『みこと』」であったわけである。興味深いことに同じ神でも『古事記』では「神」とあり、『日本書紀』では「命」とある。『日本書紀』が「みこと」を重視しているのは天皇が「すめらみこと」であり、天皇は「神」に等しく「みこと」を伝える存在であることを前提としているためと思われる(ちなみに「すめら」は統べるで統治者・大王のことである)。つまり統治者である天皇の言葉は、神の言葉であるとする精神世界を『日本書紀』では提示しているわけである。
近世、近代に成立した古神道では「鎮魂帰神」をいうが「帰神」は託宣を得ることである。「帰神」という語は『古事記』の仲哀天皇が神を降ろす時に出ている。原文は「当時帰神」とあって、これを
「当時神(そのかみ)を帰(よ)せたまひき」
と読むのが通例である。あるいは
「時に当たりて神を帰(よ)す」
と読むこともできるであろう。古神道では「鎮魂」で心身を浄化した後に「帰神」で「神」が懸かって来るとする。ただ「神」とは言っても実際は個々人の無意識領域にある「情報」が出て来るに過ぎない。こうした「情報」は時には常識(先入観)を超越したところがあるので、ある種の「真実」を知るのに有益であることもある。大本教の出口ナオのお筆先は近代化への強烈なカウンターであった。近代化によって豊かになった層もあれば、そうした社会の流れに取り残された人もいる。そうした中で世間一般では「近代化は良いこと」とされる「常識」があったが、それを超越して物質文明を否定する「無意識の声」を出すにはお筆先、つまり神の言葉「みこと」である形式が不可欠があったのである。
『古事記』で仲哀天皇が神降ろしをするところは、古代の帰神を知る貴重なシーンである。
この時、仲哀らは筑紫も訶志比(かしい)の宮に居て、熊曽(くまそ)の国を討とうとしていた。その是非の託宣を得ようとしていたわけである。仲哀が琴を弾いて、后である息長帯日売(おきながたらしひめ)の命の帰神を促す。この時に言葉によって帰神を導いたのが建内(たけうち)の宿禰(すくね)であった。これを『古事記』では、
「沙庭(さにわ)に居て、神の命(みこと)を請(こ)ひき」
とある。この「沙庭」は「審神(さにわ)」であり、帰神儀式の進行を担う重要な役である。
そして帰神状態に入った息長帯日売の命から託宣がなされる。
「西の方に国がある。金銀を始め極めて多くの財宝が、その国にはある。自分はその国を与えるであろう」
託宣は熊曽の国ではなく朝鮮半島の国を侵略せよと出た。これに対して仲哀は、
「高い所に登って西の方を見ても国土のあるのを見ることはできない。ただ大海があるだけではないか。偽りを言う神である」
と言ったとある。これは仲哀も「審神」をして息長帯日売の命の降ろした神が偽神であると判断したわけである。仲哀が「偽の神である」というと神は激怒して、
「およそこの国は汝の統治する国ではない!勝手にしろ!」
と述べたとある。ちなみに、ここの原文は「汝者向一道」とある。これは一般的には
「汝は一道に向ひたまへ」
と読んで「一道を行け」という意味であるとする。ただ、これでは「一道」が何か分からなくなるが、人は生まれて亡くなるのが一なる道であると解釈して「死んでしまえ」と言ったとされる。このエピソードの展開として、その意味であることはまちがいあるまいが「道」は「言う」とも読むので
「汝は一に向へと道(い)ふ」
とすることもできよう。ただし、これは漢文では「道汝者向一」となって語順が異なるが、古代では本来の漢文の文法とは違って日本語と同じ語順で書いている金石文もあるので可能性としては、そう読めるかもしてない。
降りて来た神が偽りの神であると分かった仲哀は帰神を促す必要はないと考えて琴を弾くのを止めるが、建内の宿禰は止めないように促す。しばらく暗闇の中で琴の音がしていたものの止んでしまったので、不思議に思って火を灯して見たところ仲哀は亡くなっていた。
こうした経緯から伺えるのは大和朝廷の中に九州侵攻派と朝鮮侵攻派があり、筑紫まで来た仲哀はあくまで九州侵攻のみを考えていたが、朝鮮侵攻派の意見を抑えが難く帰神をして託宣を得ることになったものと思われる。そして結局は朝鮮侵攻の託宣が出されるのであるが、これを仲哀は拒否してしまう。「古事記」では仲哀が合理的な判断をしたことを暗に記している。また後に半島を侵攻する「託宣」を得て侵攻に出る息長帯日売の命(神功皇后)も、先に熊曽の国に侵攻をしている。
これらは先の戦争の時には「三韓征伐」として日本が朝鮮半島の国々(百済、新羅、高句麗)を支配した史実として喧伝されたが、実際はそうしたことはなかったようである。思うにこれは熊曽の国を侵攻しようと考える仲哀と、むしろ熊曽の国と協力して半島へ勢力を伸ばそうとする親「熊曽の国」派との対立があったのではないかと思われ、大和朝廷の中では親「熊曽の国」派が勝っていたということであろう。当時、九州に住む日本人勢力の半島への侵略は、後の倭寇のように常にあったようであり、半島の人とも協力していたものと思われるが半島の南端の「任那(みなま)」と称される地域が日本人と朝鮮人が共に居た地域であったようである。これらは本格的な統治を目的とするというより、金銀財宝のあふれる国々への略奪が主目的であったのではなかろうか。
このように「託宣」は現実の勢力と相反するものであってはならないものであった。これは道鏡事件の時でも明らかである。769年(神護景雲三)に称徳天皇へ道鏡を天皇にすれば天下は泰平となるとの「託宣」が宇佐神宮で得られたことが報告された。しかし称徳は再度の確認をするようにとの「夢告」を得て和気清麻呂を遣わすことになる。道鏡は称徳の寵愛する人物であったので、称徳としてはそのまま皇位に就けても良いと思っていたかもしれないが、「夢告」で再度の確認をしなければならなくなったのは反道鏡勢力の強い巻き返しがあったためと思われる。
結果として和気清麻呂は「皇位には天皇の血筋の者を立てなければならない。正しい道を行わない者は早々に排除せよ!」との「託宣」を得たと報じたのであった。そして道鏡は翌年、庇護者である称徳が亡くなると失脚してしまう。宇佐神宮は奈良時代に朝廷に都合の良い「託宣」を得たと報じることでその存在価値を高めていた。道鏡を天皇にというのは、中央の情勢を読み間違えたのであろう。そこで再度の「託宣」が求められることになったわけである。これは先に見た仲哀の時の「託宣」も同様で、仲哀が亡くなって(殺されて)から再び神降ろしが行われている。そして、
「かの国は、汝(息長帯日売の命)の腹の中に居る子が治めるべき国である」
との「託宣」を得ている。現状に合う内容の「託宣」が発せられたわけである。こうしたことからすれば称徳も始めの「託宣」のままを実行しようとしたら仲哀と同じく殺されていたかもしれない。そうした危険を感じて「夢告」があったとして再度の確認をすることになったものと思われる。
ここで面白いのは大和地方では「夢告」が広く行われており、九州地方では「託宣」が主ではなかったかと思われる点である。称徳は「夢告」によって改めて宇佐神宮から「託宣」を得ることを決意する。また仲哀が「託宣」を得たのは筑紫に居た時である。「夢告」によってある種の「叡智」を得ることは中世あたりにはかなり盛んであったようで聖徳太子には夢殿伝説があるし、絵巻物には寺社の軒(のき)や床で横になっている人がよく描かれている。また明恵には「夢の記」があり、「夢告」でいろいろなことを得ている。『聖徳太子伝暦』によれば「金人」が現れて「妙義」を教えられたとある。「金人」とは悟りを開いた人のことで、そうした存在が現れて仏教の奥義を教えてくれたというのである。これには夢殿で瞑想をしている安田靫彦の絵画「夢殿」のイメージが強いのであるが、当時の状況からすれば「夢告」を得たとした方が妥当であろう。
「夢告」とは何かというと既に「記憶の中にある情報が組み替えられて新たな発見をする」ことである。これは武術では「神伝」として多くの流派が開かれている。かつて「無意識」などということが分かっていなかった頃には、考えてもいなかったような「妙義」が得られると、それが「神」が与えてくれたものと考えたであろうし、それを得るために寺社に何日も籠もっているのであるから、当然そのように受け取られたわけである。
ただ「託宣」は超越的な叡智を持つ「神」によるものではない。そうであるから「託宣」によって難解な数学の証明を知ることはできないし、有効な薬の化学式を得ることもできない。それは「託宣」を得る人にそれに必要な情報がないからである。一方で研究者には「何でもない時に思いついた」ということがよく語られる。これが、もし寺社に参拝していたような時であれば「託宣」と受け取られるかもしれない。
古神道では鎮魂帰神というが「帰神」という語は先に見たように『古事記』の仲哀のところに出て来る。一方「鎮魂」は『古事記』にも『日本書紀』にも出ていない。ただ宮中では鎮魂祭を行っているので、そのあたりから古神道は「鎮魂」なる語を得たものと思われる。加えて「鎮魂」と「帰神」は本来は全く関係の無いものである。ただ、これを一連のものとして、鎮魂で心を鎮め、帰神で「託宣」を得るようなイメージは仏教で深い禅定により空の知恵の得られるとするところからの発想であろう。これは現代ではマインドフルネスとして広く行われているものと同じである。古神道の鎮魂帰神は、マインドフルネス的な発想に近いものであったのであるが、神道的な迷信から脱することができず、今では顧みる人の居なくなっている。