宋常星『太上道徳経講義』第七十七章

 宋常星『太上道徳経講義』第七十七章

(1)天地の間にあっては、余りがあることはないし、足らないこともない。

(2)余りがあればそれは減らされるし、足りなければ加えられることになる。

(3)それは人においても同様である。

(4)余りがあるままで、それを減らすことができない。足りない状態でそれを補うことができない。あるいは足りない状態でさらにそれを減じてしまう。そうなってしまえば人の道にあっても「平」らかであることはなくなってしまう。

(5)この章では先に弓を張ることをして、天の道の「平」らかであることを明らかにしている。そして最後に聖人はよく天の道の「平」らかであるように「平」らかであることが示されている。

(6)つまり聖人は至平なのである。

(7)ただ何が至平であるかを具体的に語ることは、道と同様にできるものではない。

(8)つまり至平は道と同じなのであるから、修行者自身も至平でなければ道を修することはできないのである。

(9)この章では、世の人の心は「平」らかではないので、天の「平」らかなる道が示されている。


1、天の道は弓を張るのと似ている。

(1−1)天の道は「平」らかであることを貴ぶものである。

(1−2)「平」らかであるのは、弓を張るのと似ている。

(1−3)「弓を張る」という行為においては、高いところを射る時にはそれに適した構えをするが「弓を張る」ことには変わりはない。また下に向けて射る時でも同様である。

(1−4)天も物の個々に対応している。

(1−5)過不足があれば減らしたり補ったりするし、倒れている植物は立て直す。状況に応じて天は働いている。

(1−6)これが足りていて、彼が不足しているといったことはないし、あれが厚過ぎ、これが薄過ぎるといったこともない。

(1−7)それは弓を張るのに高く射る時でも、低く射る時でも「弓を張る」ことに何らの違いのないのと同じである。

(1−8)こうしたことを「天の道は弓を張るのと似ている」としている。


2、高いところを射ろうとするなら仰向いて弓を張るし、下に向けて射ろうとするなら弓を抱えあげるようにして弓を張る。

(2−1)ここでは「弓を張る」ことに就いて具体的に述べている。

(2−2)そうして天の道を述べようとしている。

(2−3)「弓を張る」のは、高いところを射る時には上を向いて弓を張ることもあるであろうが、そうした時は弓は上を向いているので、普通の時と同じ力加減では矢を落とすことになりかねない。これが「高いところを射ろうとするなら仰向いて弓を張る」ということである。

(2−4)またある時には、下に向けて構えることもあろうが、そうなると弓を持ち上げるようにしないと下に向けて弓を張ることができない。この時も普通と同じ力加減では弓を張ることはない。これが「弓を抱えあげるようにして弓を張る」である。


【補注】「弓を張る」という行為は上向きに射る時でも、水平に射る時でも、下向きでも同じであるが、それぞれの場合において力加減は同じでなない。力加減が同じであれば、等しく弓を張ることはできない。天の道も個々の物に応じた働きをしているが、それぞれを「成長」させるということにおいては「弓を張る」と同様に共通している。


3、余りがあればそれを損じるし、足りなければそれを補う。

(3−1)弓を張る時に高く構えるのを「余り」があるとする。

(3−2)こうした「余り」がある状態で、普通に射ても矢を当てることはできない。

(3−3)そうであるから「余り」は修正されなければならない。

(3−4)また反対に下に向けて射るのを「足らない」とすると、これもそのままでは矢を当てることはできない。

(3−5)共に修正を加えなければ高いところに当てられないし、低いところも当てることはできない。

(3−6)こうした「弓を張る」ことに見られる「道」は、つまりは「天の道」と同じである。

(3−7)ここでは「弓を張る」といった小さな事例から、大きな「天の道」を知ろうとしている。


4、天の道は、余りがあればそれを損じるし、足りなければそれを補う。

(4−1)余りがあると「平」らかではない。足りないのもまた「平」らかではない。

(4−2)余りがあったり、不足していたりしているのを放置していると、それは益々、助長される。

(4−3)陽が過度であり、陰が過度であるのが気候であれば、陰が過ぎれば寒くなるし、陽が過ぎれば暑くなってしまう。

(4−4)ひとつの方に偏り過ぎれば、それは全て「余り」があるということになる。

(4−5)また足りないのを補うことがなければ、足りないままになってしまう。

(4−6)陽が陰に応じることがなければ、陰は陰のままであり適切に働くことができない。

(4−7)陽がそのまま陰に応じることがなくても、陽が強まるだけで、適切に陽が働くことはできない。

(4−8)一極だけであれば、どうしても過不足が生じてしまう。

(4−9)必ず余りがあれば、それは損じられなければならない。そして余り過ぎることがないようにする。

(4−10)足りないのであれば補って、適切であるようにする。

(4−11)そうすれば「平」らかになる。

(4−12)これが天の道である。


5、人の道は、しかしそうではない。足らないのに損じて、余っているのに加えてしまう。

(5−1)天は無私である。

(5−2)そうであるから「平」らかになること以外に何事も行うことはない。

(5−3)人の心は私に満ちている。そうであるので「平」らかなるを求めることはない。

(5−4)天の道は余りがあればそれを損ずる。そしてまさに足りなければそれを補う。

(5−5)人の道は天の道と相い反している。

(5−6)およそ足りない状況であっても、自分が補おうと欲しなければ、それを行うことはない。

(5−6)この反対に損ずべき余りがある場合にも、自分が欲すれば余りがある上にもそれに加えてしまう。

(5−7)こうした行為にあっては、ただ正しい行為でないのを畏れるべきである。

(5−8)足りないのを損じ、余っているのに加える。

(5−9)こうした人の道は「平」らかではない。

(5−10)こうしたことが起こるのは人の心が私で動いているからである。

(5−11)ただ人も天の道によるのであれば「平」らかである行為をすることができる。

(5−12)そうなれば必ず損ずるのは、どのような時が適切かを知ることができる。これを補うのは何時かを知ることができる。

(5−13)こうなれば、どうして足りないのに損じ、余っているのに加えるようなことを人はするであろうか。


6、(こうした「天の道」を体得することができれば)どうして余りがあるのに加えることがあろうか。天下にはただ「一」なる「道」があるだけである。こうした「道」に等しい聖人は、その行動に執着することなく、その功績を自らのものとすることにこだわることもないし、自分を賢く見せようとも思わない。

(6−1)この「一」なる自己はそれだけで完結している。

(6−2)もし自己以外に何かを求めるとすれば、それは全て「余り」ということになる。

(6−3)(「私」的な欲望を持つ人は)「余り」があれば、それを是正しようとは思わないであろう。そして、そうした(「天の道」に外れた)状況は、あらゆることに及ぶことになる。

(6−4)「天下=公」ということからすれば、そこに「私」を行うということはない。

(6−5)よく行い得るのは、ただ「道=公」である。

(6−6)「天下」は「一なる私(注 この場合は「天の道」と一体である本来の私)」と等しいものである。

(6−7)こうしたことを知っていれば、余りがあれば、それを減じるのが「天下の道」に順ずる行為であることが分かろう。

(6−8)そうしたことを聖人はよく知っている。聖人はよく「天の道」を行っている。

(6−9)およそ人の行為は有為であることも含めて全ては我が「性(心の本源)」の中に存している。

(6−10)例え「功績」があるとしても、それは自己において完結していることである。

(6−11)そうであるから道と一体である聖人は(世間で「功績」として評価されることに)「執着することなく」あることができるのである。

(6−12)「功績」にこだわるとは、自己の為したことを「功績」として自己のものとしようとすることである。

(6−13)そこに「私」があるので余っているところにさらに加えるようなことをすることになる(注 自己の行為を「功績」として評価されるのを受け入れることはなく、自己の行為を自己において完結させて他人に誇るなどの余計なことをしない)。

(6−14)「天下の道」において何かを加えるのは足りない時だけである。

(6−15)そうであるから天地にあっては過不足なく物を生み、育てることができている。

(6−16)「天地の道」にあって、どうして「功績」を自己のものとすることがあろうか。

(6−17)「功績」(と他人に評される行為)があったとしても、それに執着しないので聖人の「功績」はより大きく評されることになる。

(6−18)およそ人が自己を誇っているのを見るに、それらは全て自己を賢く見せようとしているからであり、これは、つまりは自己の視野の小ささから生まれている。

(6−19)賢くあると見せようとするのは浅薄な行為でしかあり得ない。

(6−20)また自己にある真の賢さからすれば、あらゆることには「中(注 中庸ということ。「平」と同じ)」にあって左右されることとなろう。

(6−21)こうした賢さは生涯の宝である。そして、それはあらゆる人に見ることができるものでもある。

(6−22)通常、自己の内にそうした賢さを見るのことができないのは、その賢さは計り知れないものがあるからである。

(6−23)こうした賢さは自己を越えて他人に誇る必要のないものである。そうであるから「賢く見せようとも思わない」わけである。

(6−24)この章では、聖人は何事も自己のものとすることなく、自己に執着することなく、あらゆる評価を自己のものとして見ることもない、としている。

(6−25)こうしたことの全ては余りがあれば損ずるというのと同じである。

(6−26)こうして何かをやり遂げても、それはただ全て足りていないのを補っているだけなのである。(注 通常は「功績」と見える特別なことがなされたと思われることも聖人にとってはただ日常的な行為をしたに過ぎない。そこにはそうした行為に「評価」として加えられるべき何ものもないのである。つまり「功績」はないわけである)。

(6−27)そうであるから「天の道」の余りがあれば損じ、足りないのを補うのに習うとすれば、全ては「平」らかなるものとして完結しているわけである。

(6−28)それは「天の道」であり過不足の無いものであり「弓を張る」のと同じ行為なのである。

(6−29)高いところを射ようとするならば上に向けて射るし、下に向けて射ようとするなら下に向けて射る。そうであれば「平」らかならざるものはない。

(6−30)「天の道」は、つまりは「聖人の道」なのである。「聖人の道」は、つまり「天の道」でもある。

(6−31)道を修する者は、こうしたことを知っていなければならない。


〈奥義伝開〉

ここでは聖人は自分の為したことに執着することも、その功績にこだわることも、他人の評価を気にすることもない、としている。それは聖人が「足りなければ補い、余っていれば削る」という合理、必然によって行動するだけで、その「結果」なるものには全く関心がないからである。例えば確認のサインをするとして、聖人にとっては宅配の受取りのサインをするのも、外国との条約にサインをするのも、何ら変わりはないのである。外交交渉に成功して条約の締結を成功に導いたのは大きな「功績」と評されるであろうが、宅配のサインをしたことが高く評価されることはない。老子はそうした考え方を正しいものとはしない。また老子のこうした考え方は「職業に貴賎はない」とすることにもつながるものである。

これは武術的には鄭蔓青が言っていた「無招は万招に勝る」も、こうした老子の教えから生まれている。「招」とは技のことで、つまり技を持たない方が万の技を習得している者よりも優位に立つことができる、ということである。ただ、こうした考え方は実用的ではないとする誤解も多いであろう。これは「無為自然」を「何もしないこと」と誤解するのと同じである。「無為自然」は必然性のあることだけをする、ということである。宅配の受取りにサインをする「必然性」があればサインをするし、条約締結でサインをする「必然性」が生じているならサインをする。ただそれだけのことである。

意拳はこれを誤解して技を廃してしまうのであるが、結局は武術として効率的に動くことができないのが分かって、最終的には套路は持たないが、いくつかの技を取り入れてた。結果として「現代武道」と同じようなシステムになってしまったのであるが、それはそれで徒手だけでの攻防においては合理性がある(徒手の攻防という条件下)のであるが、それ以上でもそれ以下でもないので、結局は「現代武道」で充分ということにもなりかねない。本来の武術は攻防が始まる前、それを起こさない工夫も重視されている。

「無招」というのは技を全く廃するということではなく、技を無意味化することである。突きや蹴りを腕を前に出す、足を上げるといった日常動作と等しいものに還元する。その方法を具体的に提示し得たのが、ゆっくり動くという太極拳の発想であった。ゆっくり動くことで突きは突きとしての意味を失い、蹴りも蹴りとしての作用を喪失してしまった。しかし、この動作を速く行うと腕を前に出す動きは突きとなり、足を上げる動きは蹴りとなる。こうしたシステムでなければ「無招」の意味がない。

それは近世日本で重視されていた「兵法の平法」化につながるものでもある。「兵法は平法」となりまた「平法は兵法」とならなければならない。こうした互換性を如何に担保するか、それは解決の難しい難問であった。残念ながら日本では「兵法の平法」化までは及んでいたが、「平法の兵法」化といった互換性までをも具体的に行い得るシステムの構築にまでには至っていなかった。それを唯一、解決しているのが太極拳なのである。


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