宋常星『太上道徳経講義』第七十六章
宋常星『太上道徳経講義』第七十六章
(1)天地は「柔弱」をして万物を生じさせており「堅強」をして万物を殺している。
(2)「柔弱」であるのは生気である。それは万物を生むだけではなく、気をもよく生じさせる。そうであるから万物が生存し得ているのは生気があるからであり、またそれがあれば長く久しく生きて居られる。
(3)「堅強」は死気である。万物がこの気を得ると死んでしまう。死気は万物において生まれるものであり、その気が生じればあらゆるものは死に絶えてしまう。
(4)こうしたことからすれば、あらゆる物において生気があれば生きて行けるし、死気があれば死んでしまうのであり、そうした「理」はあらゆる物に等しく働いていることが理解される。
(5)そうであるから修行者は、先ずは「性情(注 心のあり方)」を整えるべきであり、気質を和して(注 行動を律して)、我が身を常に生気に満ちた状態に置いておかなければならなず、死の道へ入ってはならない。
(6)ただ(人が生きるとは死へと向かうことであり、人において自然に生じているのは死気であるから)始めから(修行によって)「柔弱」を得ることはできないであろう。しかい「柔弱」は人でも物でも、つまり草木でも等しく生きる「理」として存しているのであるから修行によってそれを得ることは不可能ではない。
1、人が生まれるのは「柔弱」においてである。
(1−1)「柔弱」は春夏の気である。人がこの気を得れば生きることができ「性情」は安らかとなる。
(1−2)「柔弱」の気を得た人は、心が広くなり、自分だけの思いで行動することはなくなる。他人と争うこともなく、公を基準に考えることができ、天地の和を養って、生気を養うことが可能となる。
(1−3)そうなれば生気は自然に長く久しく存することができるようになる。
(1−4)そうしたことを「人が生まれるのは『柔弱』においてである」としている。
2、人が死ぬのは「堅強」においてである。
(2−1)「堅強」は秋冬の気である。人がこれを得れば死んでしまい「性情」は乱れて、行動も天の「理」より外れたものとなる。
(2−2)この気を持ってしまうと行為は荒れてしまい、天地の和を傷付けるようになり、生気を根絶やしにしてしまう。
(2−3)そうであるから死気を得れば自然にあらゆるものは死へと至るのである。
(2−4)これを「人が死ぬのは『堅強』においてである」としている。
3、万物、草木にいたるまでそれが生きている状態とは「柔脆」である。そしてそれが死んでいる状態は「枯槁」である。
(3−1)人は「柔弱」を得て生き「堅強」を得て亡くなる。
(3−2)それは、あらゆる物において共通している。草木であってもそうである。万物には、そうした「理」が等しく存している。
(3−3)草木の形は、それぞれ違っている。そうした違いが生まれるには「柔脆」であるからである。「柔弱」な気がなければ、そうした違いが生まれることはないのである。
(3−4)つまり「柔弱」には生成の働きがあるということである。
(3−5)そうであるから「柔弱」は生気なのである。
(3−6)およそ物が最初に生じる時には、必ず「柔弱」の気がなくてはならない。
(3−6)「柔脆」でなく「枯槁」となれば、それは必ず死へ向かうことになる。
(3−7)気は統合を失って四散してしまう。それが「枯槁」ということである。「枯槁」は死気による。
(3−8)およそ老衰は「枯」れているのと同じであり、干からびて固くなっている状態である。こうしたことは、あらゆる物、草木に至るまで言える。
(3−9)つまり人は「柔弱」であれば、生きることができないのであり、「堅強」であれば必ず死んでしまうのである。こうしたことは充分、信ずることのできる教えである。
4、そうであるから「堅強」は「死の徒」であり、「柔弱」は「生の徒」なのである。
(4−1)人や万物、それに草木にあっても、その有する「理」は同じである。その「気」においても変わりはない。
(4−2)つまり、あらゆる物は等しく生き、等しく死んで行くのである。
(4−3)「堅」は「柔」の、「強」は「弱」の反対である。これらは一定の期間を過ぎれば反対へと転じてしまう。そうして「気」は散じやすくなり、気が散じてしまえば死へと至ることになる。
(4−4)つまり「柔」から「堅」へ、「弱」から「堅」へと移ることで死へと至るわけである。
(4−5)およそ「柔」であればよく「和」することができる。「弱」であれば「猛」ることはない。つまり「柔」や「弱」であれば、長く状態を維持することができるのであり、その「気」は散じることがない。そうであるから、これらは全て「生の徒」とすることができる。
(4−6)よくこの「理」が分かれば「柔弱」へと至ることができるであろうし、決して「堅強」を求めることはあるまい。自分で「死の徒」となることはないからである。
5、つまりは兵が強いというのは、それは好ましい状況ではないのである。
(5−1)人や物、草木であっても全てにおいて生きるために「柔弱」は重要である。
(5−2)そうした観点から兵を用いることを考えるなら、用兵は最も「堅強」を求めるものであるといえる。
(5−3)そうしたことからすれば兵が強いのは決して好ましいことではない、ということになる。
(5−4)本部で作戦を考える。その時には相手の虚実を考えることであろう。そして命を全うできる方法を求めるわけである。
(5−5)もし、そうした中で「強」さにこだわって、その鋭さを無闇に使おうとするならば、それは自滅することになろう。
(5−6)それは好ましい道ではない。結局は「堅強」は「死の徒」なのである。これに良いところはひとつもないである。
6、「木強」であるというのも同じである。
(6−1)兵を用いるのに「強」さの必要でないことは、先で見た通りである。
(6−2)「木強」もまたそれと同じで「強」い「木」においても、それが言えるわけである。
(6−3)「同じ」とは「有している」ということである。
(6−4)強く硬い「木」は両手で強い力を加えれば折ってしまうこともできよう。しかし「木」がそれ程、強くなければ、枝や幹は柔らかいので、それを折ろうとしても、容易に折ることはできない。
(6−5)「木」が「強」いということは枯れているということである。そうであれば簡単に折れてしまうであろう。
(6−6)「『木強』であるというのも同じである」とあるが、それは結果としては当然そうでなるわけである。「木」ということを考えても「堅強」は「死の徒」であることに変わりがないのである。
7、「堅強」は下るのであり、「柔弱」は上っている。
(7−1)「下」るとは「墜ちる」ということである。墜ちれば「下」へと向かうことになる。それは「死の徒」へと入って行くことである。
(7−2)「堅強」であれば折れやすい。生気が尽きてしまうことが「下」へ墜ちるということなのである。
(7−3)「下」に移るのは自然の「理」である。
(7−4)「上」るとは「昇る」ことである。
(7−5)昇って「上」に行くとは、下るのとは反対で「生の徒」へと至ることである。
(7−6)「柔弱」であると(上へと)成長をすることができる。それは生気がひじょうに盛んであるからで、こうなると気は「上」へと昇るわけである。
(7−7)生気が働いている時に「上」る動きが見られるのは自然の「理」であり、これは「木」でも当てはまるし、用兵でも、万物においても等しく見ることができることである。
(7−8)また、それは人が生きることにおいても同じである。つまり上へ成長しているのは「生の徒」である、ということであって、上へと成長している内は決して「死の徒」となることはないわけである。
(7−9)人はどうであっても「剛」となれば死ぬのであり、「柔」でなければ生を求めることはできないのである。
【補注】ここの「上」は「かみ」「始め」ということであり、「下」は「しも」「終わり」と解するのが妥当であろう。万物は「柔弱」で生まれて「堅強」となって死んで行く。単に上下とすると用兵においてはその理が通らなくなってしまう。
〈奥義伝開〉
ここで老子はシステムのことを述べている。「柔弱」なシステムとは可逆性のあるシステムのことである。言うならば柔軟な組み換えが可能なシステムとすることができよう。これが働いている限りは細胞が再生されるので人は生きていくことができる。しかし、可逆性は次第に働かなくなる。そうなると死へと向かうことになる。
仏教ではあらゆる物は不可逆システムであり、滅亡へと向かっていると考える。一方、老子は天地が永遠であることから可逆性は無限に働くものであるとして、もし人がそうした本来のシステムを回復させることができれば、その生命は永遠に続く、つまり人は不老長寿が可能となると考えていた側面がある。これは再生医療と同じ考え方であるので、もしかしたらそうしたことも可能かもしれない。
老子は軍隊は最も可逆性のない組織とする。それは「暴力」を拡大するしかない組織であるからである。軍隊は拡大に歯止めをかける以外にそれを制御することはできない。ただ現代においては「災害救助」の働きも行っており、これは「暴力装置」の暴走から別な組織へ変容のようにも見えるが、戦時において救助されるのは兵士であって、一般の人ではない。一般の人が救助されるのは平時でしかない、あるいは余裕のある時でしかないわけで、その本質には変わりがないわけである。