道徳武芸研究 高、中、低の三架を練る
道徳武芸研究 高、中、低の三架を練る
中国武術では高架、中架、低架の区別が重視されていて、多くの解説書ではこのことに触れている。つまりこれらは姿勢の高さを表すもので高架は高い姿勢であり、中架、低架と腰を深く落とす姿勢となる。これらの区別が重視されるのは「鍛錬」のためである。一般的には姿勢を低くした方が鍛錬になるとされている。足腰の強化はどのような運動にあっても基本中の基本であり中国武術においても例外ではないし、姿勢を低くすることはその鍛錬としてよく注意されるところでもある。
しかし、ここで問題なのは低架を強調するのは分かるが何故、あえて高架や中架をいうかという点である。つまり高架や中架を練ることに何か積極的な意義があるのか、ということである。中国武術で「高、中、低」が特に重視されるのは馬歩トウ功である。それにおいては、
高架 神を練る
中架 気を練る
低架 精を練る
と、伝えられている。具体的な例で説明すると、低架は馬歩で胸の前で両掌を合わせた形をとる。この時大腿部は地面と水平に近くする。両肘は水平にして合掌をするのであるが、これにより上体を引き上げるわけである。深く腰を落としているので腰は後ろに引かれている。一方、胸は腕を水平にすることで引き上げられている。こうした上への力と下への力を身体に生じさせるわけである。これにより胸が開かれて大きな力を発することができるようになる。発勁の秘訣に「含胸抜背」があるが、これを生じさせるためには胸が開いていなければならない。胸が開いていることで、力を発する時に合わさる、その落差が力を生むわけである。「精」とは肉体のエネルギーのことで、低架では物理的に身体に負荷を掛けることが鍛錬の基本となる。
中架は両掌の指先を向かい合わせ、肘は地面と水平にする。大腿部は水平よりやや高めとなる。ここで合掌をしないのは上半身をリラックスさせるためである。中架は「上虚下実」の基本を練るために行われる。そのために低い姿勢で上半身をリラックスさせて練るのである。これにより相手の動きに応じた変化が可能となる。「気」とは勢いのことである。リラックスさせることは「陰」であり、それにより相手の勢いをよく受け入れ、それを迎え入れてコントロールできるようになる。一方、下半身にはストレスが掛かっているので、安定した下半身からは大きな力を発することができる。中架では低架で上半身にも下半身にもストレスを掛けるのとは違って、上半身はリラックスさせ(陰・虚)、下半身はストレスを与える(陽・実)。こうして身体に陰陽を作ることで気の循環が生まれて、それによって自在な動きも可能となるのである。
高架は「神」を練ることを目的とする。高架の馬歩トウ功を始めて重視したのは意拳であると思われる。それまで高架は両手を胸のあたりに構えることなく、下にして全身がリラックスした状態となるとされいて、これは馬歩トウ功とは区別して混元トウ、無極式、予備式などと称する。そして無念無想であるのが基本である。一方の意拳では馬歩の姿勢でイメージを使う。よく言われるのは「水に浮いている」ような感覚である。意拳では「意」をイメージとして捉えてそれを鍛錬する方法として高架の馬歩トウ功を考案した。王向斉は始めは伝統的な低い姿勢での馬歩を教えていたが、次第に姿勢を高くしてイメージを用いることを強調するようになった。ちなみに、一定のイメージを用いるのであれば馬歩トウ功の形を用いるのが適している(腕が水に浮いているようにイメージできる)。混元トウのようにリラックスし過ぎてもかえってイメージは作り難いし、低架のように身体への負荷が多すぎるとイメージをする余裕がなくなる。
また「高、中、低」は套路の高さにおいて言われることもある。しかし本来からすれば馬歩のそれと套路では「高、中、低」の意味が大きく異なっている。馬歩の場合はそれぞれ「神」「気」「精」を練る目的があったが、套路の場合は「外見」をいうものに過ぎない。鍛錬をしている本人はあくまで「中架」を基本とする。ただこの場合の「中架」は低架、高架に対しての「中架」ではない。「中庸」の架という意味での「中架」である。つまり「最も適した高さ=中架」ということなのである。これにより神、気、精は安定して円滑に巡るようになる。こうした神、気、精の周流のことを古くは「火候」と称した。姿勢が低くなれば「火」の力が大きくなる。逆に高くなれば「水」の力が大きくなる。「火候=火加減」は水が火に熱せられて蒸気が継続的に吹き出している状態が良いとされる。この「蒸気」のことが身体では「気」となる。ある人は低い姿勢で練ることでちょうど良い「火加減=火候」を得ることができるであろうし、ある人は高い姿勢であるのが適当な場合もある。さらにはその身体の状態によっても、どれくらいの「火」の力を発生させるかは異なる。そうであるから套路における「高、中、低」は、あくまで外見によるものに過ぎないのであって、それはあくまで実質的には「中架」でなければならない。
これまでに見て来たように馬歩トウ功で気血の円滑に流れる基礎をつくり、套路でそれを巡らせるというのが中国武術における「高、中、低」のシステムであった。そうであるなら馬歩の無い形意拳はどのようにして気血を巡らせる基礎を得ているのか、ということになる。気血が円滑に流れる身体の特徴として見られるのは腰から背中にかけての「反り」である。正座はそうした姿勢を作るのに有効である。そのために日常生活にも取り入れられてたし、武術でも居合などは、わざわざ江戸時代になって正座を練習体系に組み込んでもいる。坐禅で座布を使うのも同じ効果をもたらすものである。一方、年老いて「背中が曲がる」と腰の「反り」は無くなってしまう。つまり腰の「反り」のあることは身体エネルギーの充実しているひとつの証拠でもあるわけである。
馬歩を用いない形意拳では三体式で基礎を練る。一般に三体式は「構え」をとってその姿勢を保つことで足腰を鍛えることが重視されるが、擺歩で拳を突き出す動作、掌を振り下ろす動作を練ることの意義も忘れてはならない。三体式では始めの擺歩の動作で胸が開かれて、腰の「反り」が生まれる(三体式で腰の「反り」を得るには、膝の使い方など、いくつかの口伝がなければ難しいかもしれない)。載氏心意拳の「丹田功」とされるものは、腰の「反り」を作るためのものである。これを五行拳(劈拳)と融合させて形意拳が生まれた。三体式には「龍吟虎嘯」の秘訣がある。擺歩で拳を突き上げるのが「龍」の形で、掌を振り下ろすのが「虎」とされ、それぞれが鳴き声を発して呼び合っている。これは気血の上昇(龍)と下降(虎)が、三体式では行われているということである。形意拳の三体式は、心意拳の丹田功の変化ということができるであろう。
このように高、中、低の三架を練るのは気血の円滑な流れを促すことを目的としている。およそ筋力を鍛えるのは気血を多く流すことによってなされると考える。そのため重い物を持ったりすると、その部位にはより多くの気血が流されるので筋力も増加される。これを負荷によらないで攻防の塘路の中で鍛錬しようとするのが気血の円滑な流れを重視する鍛錬となる。結果として太極拳の名手とされる人は、しっかりした体格の持ち主である。太極拳を練習していて貧弱な体格のままであるのは正しい鍛錬がなされていないからに他ならない。そうであるからといって無闇に負荷を掛けるようなトレーニングを行うのも全くの間違いである。「高、中、低」の鍛錬により個々人に最適化した鍛錬が可能となり、心身はあるべき状態、自然へと回帰して行くのである。