宋常星『太上道徳経講義』第六十七章

 宋常星『太上道徳経講義』第六十七章

(1)天の道は争うことなく変化をして行く。聖人も争うことなく万民は自ずから感化される。

(2)これは物それぞれが、それぞれのあるべきになる、ということである。

(3)その働きは無為において行われる。それは、ただ個々の物の本質に帰るに過ぎない。あらゆる物は無為であれば、あるべきようにあることができるのである。

(4)無為とはつまり「弱」くあることで、それによりかえって「強」い働きが現れるのである。

(5)怒ることのない人は、その「勇」を完全に履行することができる。それは怒りによって目的が限定されないからであり、また怒りがなければ、どう働いて良いかも明らかになる。

(6)よく自分を「下」に置けば、多くの人は自ずから服するものである。それは道によっているからである。

(7)兵を用いて敵に対する。そうなれば敵との完全対立となる。争えば国であれば国を保つことは難しいであろう。

(8)自己を修して自己を治める。それは道のままなので容易に行うことができるであろう。その修行を成就することも難しくはない。

(9)天地は天地のままであるからそのままに存している。聖人は、人そのままであるから聖人たり得ている。

(10)争わないことには終わりはないし限りもない。

(11)このような教えが、この章では説かれている。争わないとを、用兵の道をして、どういったことなのかを明らかにしている。

(12)こうしたことを軽んじていれば、よく自らを滅してしてしまうことになろう。深く自己の内奥に沈潜して、自分を前に出すのではなく謹んでいることが大切である。


1、よく真の人であれば、武力を用いることはない。

(1−1)「善」を行うことは最も好ましいことであり、真の人はそうである。

(1−2)争うとは武力を以て対することであるが、真の人は身を争いの外に置いている。

(1−3)どのような軍隊であっても、それがどのように働くかは、その武力が外に向けて発せられるところに見ることができる。

(1−4)これがどういったことかと言えば、そうしたことを行うのは「不善」の人であるということになる。

(1−5)善なる人とは、その武力を表すことなく、他人に使うこともない人である。その勇を隠して他人に見せることのない人である。

(1−6)優しい態度で他人に接しても、相手はそれに服してしまう。そうした人の心には、自ずから自分は道のままにあるという思いがあるものであり、こうしたところに武力が用られることはない。

(1−7)つまり武力を用いないのが人として本当の姿なのである。そうであるから「よく真の人であれば、武力を用いることはない」としているのである。


2、よく戦う者は、怒ることはない。

(2−1)「善」なる人は武力を用いることがないばかりではない。よく戦う者は怒ることもないのである。

(2−2)軍隊が敵に対する時には、相手に対して不信感を持っているので、軽々に怒りを発してしまうことになる。そうなれば必ず先鋭化してしまう。そうしていれば何時かは戦い敗れることになる。これは「善」く戦うことができないからである。

(2−3)しかし「善」く戦うことができれば、力をして相手を屈せしめることはない。徳をして服させるのである。

(2−4)計算ずくで戦う。こうした時には怒りの介入する余地はない。単なるゲーム感覚であるので、怒りの生まれることもない。ただ他人の怒りを利用する時には、自分は本当に怒ることなく怒ったことを装うべきである。こうして相手に冷静さを失わせてしまえば、あらゆる戦いに勝つことができるであろう。

(2−5)こうしたことを「よく戦う者は、怒ることはない」としているのである。


3、よく勝る者は、相手に交わることはない。

(3−1)「善」く戦う者は怒らないだけではない。よく敵に対して優位に立ち得る。それは敵と交わらないからである。そうした態度で居れば相手に対して優位を保つことができる。

(3−2)およそ自分の考えるくらいのことは、敵も考えているものである。自分の行うくらいのことは、敵も行い得るものである。人の考え行う程度のことは浅薄であり、簡単に他人の知るところとなってしまう。そうなれば敵に勝つことなど不可能である。

(3−3)「善」く敵に勝つことができるのは、作戦を立ててから戦いに臨む者である。敵と交わる前にどのような状況にあっても必ず勝つことができる方法を考えて戦うわけである。それは分断しようとしても叶わず、探ろうとしても様子が分からないような状況である。

(3−4)相手はこちらの動向を掴めず、その動きも分からない。そうなれば特に勝とうとしなくても勝っていることになる。

(3−5)つまり「よく勝る者は、相手に交わることはない」とはこうしたことである。


4、よく用いる者は、下に就く。

(4−1)ただ「善」く敵に勝つ者は、敵と交わらないだけではない。「善」く人を使うことのできる人でもあり、そうした人は自分を下に置いている。

(4−2)人を使う時には、自分がリードをするのであるから相手の上に立つことになる。そのために知性においても自分を高く見せようとする。そうなれば相手は承服することはない。

(4−3)例え相手より有能であるとしても、それを相手に認めさせようとすれば、なかなかそうはならないものである。こうしたことをあえて行う人は不善の人であるといえる。

(4−4)「善」く人を使おうとするなら、自己の知性を誇ることなく、相手より劣っていると見せるべきである。そうして相手の知性もそれを自分の知性として利用するのである。そのためには、もし他人よりも優れた知性を持っていたとしても自分を下に置いておくべきである。要は他人の知性を如何に利用するかである。

(4−5)いろいろな人がいろいろな知性を持っているものである。そうであるから状況に応じて適切な人の知性を使えば、どのようなことにも対処できるであろう。こうした時に自分を上に置く必要もないわけである。「よく用いる者は、下に就く」ということの深い意味は以上のようになる。


5、これを「争うことのない徳」という。

(5−1)ここでは、ここまでのことをより明らかにする言葉が示される。

(5−2)武力を用いない、怒らない、相手をしない、下に就くといったことは全て「争うことのない徳」の実践である。

(5−3)「善」く本当のあるべき人であれば、武勇を用いることはないのであるから、争うこともないわけである。

(5−4)争わないことを実践すれば、そうした「徳」を深く涵養していることになる。

(5−5)「善」く戦うとは、相手に怒りをぶつけない人である。そうであれば争うこともない。

(5−6)争わないことにあっては、それを実現するやり方がある。

(5−7)「善」く勝ることができるのは敵に対してであるが、それは相手を軽んずることでは果たされない。

(5−8)そのためには争う前に緻密な戦略が立てられいなければならない。

(5−9)「善」く人を用いるためには、先ずは自分を下に置かなければならない。そうして強いて相手を屈服させようとしないようにする。

(5−10)争わないとは、何に対するにしても「善」であるということである。つまり「徳」を実行していれば「善」であるので争うこともないわけである。

(5−11)こうしたことを「これを『争うことのない徳』という」としているのである。


6、これを「人の力を用いる」という。

(6−1)「争うことのない徳」は「仁、義、礼、智」の四徳の深い働きである。

(6−2)それはまた「人の力を用いる」とも言われている。

(6−3)「争わない」ということを、より深く考えると、それは「人の力を用いる」ことに依ることが分かる。

(6−4)一般社会で人を使うことについて考えてみると、自分を偉い者として相手より高い立場に置いて使おうとするのが普通であろう。

(6−5)ただ虚心で自分を下にして他人を使うことのできることを知る人は居まい。

(6−6)自分を高く置いてしまうと、他人が協力してくれることもなくなる。相手の力を使うこともできない。他人が協力してくれなければ、その力をも使うこともできないでいる。

(6−7)ただ「争わない徳」にあっては、自分の武力を用いることはなく、必ず相手の武力を用いさせる。自分は怒らないで、他人に怒りを起こさせる。自分は相手と関わりを持つことはないが、必ず相手をして自分と関わりを持たせる。自分は相手より上に立つことはないが、喜んで相手を服さしめる。こうした時は相手の力を使って、自分は労することなく、何もしないでいる。

(6−9)相手の力を使うとは、自分の力としてそれを使う、ということである。そうすればその力は尽きることはない。ここにある「これを『人の力を用いる』という」とは、こうしたことである。


【補注】ここは「人を用いる力」と読むべきであろう。この前が「不争之徳」であり、ここが「用人之力」であるから「争わざるの徳」「人を用いるの力」とする方が読み方として合っている。ただ「人を用いるの力」も「「人の力を用いる」も自分を卑下することで果たされることに代わりはない。


7、これを「天のまま、古の極み」という。

(7−1)「争うことのない徳」においては他人に無理強いをしないだけではない。その行為は天の働きのままとなってもいる(天)。

(7−2)「古の極み」とは(遥かな太古から)天が無為であり万物を生成して、いろいろな物の形を生み出していることをいう。

(7−3)聖人は無為をして万民を化育する。そして個々人のあるべき状態に居させる。

(7−4)無為であれば争うこともない。

(7−5)それは天がまさに天であり続けられるところの証しでもある(争うことがないので永遠にそのままに居られる)。

(7−6)古の聖人は全て「至極の理」を行っていたのであり、これは「古の極み」を行うことでもある。

(7−7)つまるところ、これらは全て無為にして行われている。

(7−8)人はよく争うことのない境地に至ることができるが、これは自分自身が争わないことによるのであり、こうしたことは天が無為にして万物を育てているのと何らの違いもない。

(7−9)古の聖人はこうした天の究極的な働きである「造化の極み」とひとつとなっていて無為にして人々を服さしめている。

(7−10)天も太古から(古の極み)の「争うことのない徳」を持っている。これは至尊、至貴の徳であるということができよう。

(7−11)天下にこれに及ぶものはない。道の修行をする人は、よくこうしたことを理解しておかなければならず、深く争うことのないことの意味を味わうべきである。

(7−12)こうした境地にあっては無闇に「兵」が用いられることのないのは当然のことであろう。争わないことは身を修する方法であり、本来の人として生きて行くための指針でもある。

(7−13)執着することがなければ相手との間に問題の起こることもない。こうして争うことのない境地に入って行けるのである。

(7−14)このようであれば執着や問題を超克することもできるのである。そうなれば他人との間で争いの起こることもあるまい。

(7−15)ここでは「兵」を使うことをして、争うことのない「誠」のあり方が示されている。これを軽んずる者は自滅することであろう。


〈奥義伝開〉最後に挙げられている「争うことのない徳」「人を用いる力」「配天」「古の極み」は全て老子の生きていた頃に「天」の働きを説明するとされる語であったと思われる。こうした語を老子は道を形容する語として紹介しているが、その中心は「争うことのない徳」にある。老子の理想とする社会状況は第八十章に示されている。つまり隣国から鶏や犬の鳴き声は聞こえるものの生涯その地域と交わることがない、というものである。交わることがないのであるから争いも起こらない。縄文時代は平和な時代とされているが、それはこうした状況にあったからである。隣の集落は遥か彼方にあって直接の交流も殆どないような環境であったわけで、そうであるから争いも起こり得なかったのである。しかし現在、我々は「密」なる環境に居る。そうなれば、どうしても争いに巻き込まれてしまう。そこで争いから離脱する方法を学ぶ必要があることになる。それには「相手」との関係を断たなければならないが、その方法としては相手を殲滅してしまうことと、逃げるのとがある。法律上からすれば「逃げる」しか選択肢がないのが現状である。如何に「敵」から逃げるか。その方法を武術から学ぶことができる。

「争わない」ことが「道」であるとしたら動物が獲物を得る行為が「自然」なものとして説明できなくなると思われるかもしれないが、「争わない」はあらゆる闘争を否定する、ということではない。「自然」において行われる「闘争」を、ここでは「争い」とはしない。生きるために行う「闘争」はここでは含まれない。しかし例えば戦争のようなことは、それをしなくても生きていけるわけであるから、こうしたことは「不自然」であるということになるまた人間の体は雑食をするようにできているとされる。そうであるならあえて肉食を否定するのも「自然」ではなことになる。


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