宋常星『太上道徳経講義』(59ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(59ー4)
「重積徳」は、これ以上のものはない。
「重積徳」は「徳」を修するだけではなく、天の理をも修するものである。そうであるから「『重積徳』は、これ以上のものはない」とされている。「これ以上のものはない」とは最も優れているということである。そうであるからこれを養うこと深く、これを実践すること厚ければ、よく一切のものに対することができるようになる。つまり「これ以上のものはない」のである。人がよく「重積徳」を養い、実践すること久しく深ければ、太極と一体となれるのであり、無為無欲の先、無極の至理に達することが可能となる。静を極めれば、観ざる聞かずして悉くを知る境地に入るのであり、そうなればさらに「重積徳」を深めることができる。また、それは米粒を積んで大倉を満たすようなものでもある。小川を集めて大海となるようなものでもある。つまり地道に心に「徳」を積んで行けば心は天地の理と一体となるわけである。そしてその「徳」を日常に用いれば、あらゆることに対応できるようになる。四角である時には四角に、円である時には円に、小さければ小さく、大きければ大きく、動けいていれば動いて、静かであれば静かに、基本は基本として、応用は応用として、あえて個々に対応しようとしなくても適切に対応することができるようになるのである。あらゆる人が、どのようなケースであっても、それに適切に対応することができる。あえてそうしようとしなくても、それは自然に対応できる。こうしたことが可能となるのは「重積徳」を行ったからである。
〈奥義伝開〉「重積徳」は「徳」を積むことをさらに重ねる、であるが、これも当時の格言であろう。「日々徳を積む」ということである。老子の場合は「徳」は「道」の実践であるから日々「道」を実践すること、つまり日々合理的な生活を送ることが「徳」を積み重ねることになるわけである。「徳」は単なる「良いこと」ではない。『老子』の冒頭では「言葉」は不用意に一面的な解釈をしてはならない、とある。つまり老子の説く「道」とは「合理的な法則」のことなのであり、それを実践するのが「徳」となるわけである。そして実践をすればする程「徳」の理解は深まる。グルジェフは「人は機械のような反応しかしない」とか「眠っている」と言う。つまり自分の頭で考えることなく「常識」で行動してしまっていることがあまりに多い、というわけである。こうした日々では「徳」を積み重ねることはできない。