宋常星『太上道徳経講義』(59ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(59ー3)
ただ過剰とならない(嗇)ことを「早服」という。「早服」は「重積徳」でもある。
前回では「自分を修して天のままとなる。それは過剰とならない(嗇)ことである」とあり、その中で「過剰とならない」ことの意味は既に明らかにした。天のままに自分を修するには、特に過剰とならないことが重要であった。そしてここではそれに続いて「ただ過剰とならない(嗇)ことを『早服』という。『早服』は『重積徳』という」としている。「今までに無かったことを始める」のが「早」であり、また「体と心が一体となって離れることがない」のが「服」である。物欲がいまだ生まれない時、天の道と一体となった自己の本来の心(性)は汚されてはいない。完全無欠である。もし誠によってそれを養うことがなければ、どのような行為にあっても私欲が僅かでも影響することになり、そうなれば正しい行動をとることはできなくなってしまう。つまり天の徳によることがなければ、あらゆることが私欲に汚染されてしまうことになるわけである。そうであるから「過剰とならない」ことの効果は「早服」の前提としてあるものなのであり、積徳の大本でもあるわけである。こうして徳を養えば精神は安定して、私欲に汚される前の状態に戻る。これを修すれば、物欲が生まれる前の状態を得られるわけである。もし、こうした状態に入ることができれば、物事を行うより早くに徳に服することができるようになる。そうしてこれを深く養って行く。よくよく深く心に留めるようにする。そして道を得て徳と一体となる。つまり天地のあらゆる徳は自己と全く離れることがなくなるのである。人の心の至理は、あらゆる人に完全な形で備わっている。そうであるから物欲が生まれない前に、よく「過剰とならない」ようにする。物欲に汚されない完全なる精神に戻ることも「早服」であることも、日々それを養おうとしなければ、つまり修することがなければ得ることはできない。しかし少しでも「早服」であろうと思っていれば、つまりは天の道とひとつとなることができる。そうであるからこれをよく修するべきなのである。よくよく修して、ひとつひとつ私欲による誤りを正して行く。そうなれば次第に完全なる道と一体となった自己の本来の心(性)を取り戻すことができる。私欲をよく排することができれば、その分、天の徳が明らかとなる。そうして日々を過ごして行くと、天の徳は増々明らかとなる。天の理は増々心に確かなものと感じられるようになる。自己の身に万物造化の理のあることが分かるようになる。心は天地の道と一体となり、私意によることなく、人を修める大いなる道を養うことができる。天の至理と一体となることが可能となるのである。
〈奥義伝開〉ここでは前回に出された「過剰とならないこと(嗇)」を具体的に説明する。それは先ずは相手の立場になって考える「早服」であり、その実践は重ねて徳を積む「重積徳」となることを明かしている。「徳」とは「道」の実践であるから、「過剰とならない」生活はすなわち「道」の実践となっているわけである。この「早服」は「捨己従人」ということでもある。これは太極拳の拳訣としてよく知られているが『孟子』にも出ていて(もとは『尚書』にある)、先入観なく相手を知ることを第一としてその後に自分の考えを持つべきとしている。通常は「過剰にならないこと」と「早服」「重積徳」は関係ないように思われるが、老子はあらゆる「善」行のベースに「過剰にならないこと」があると考えるので、その観点からの共通性を述べているわけである。