宋常星『太上道徳経講義』(58ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(58ー6)

そうであるから聖人は「四角なものを分かつことはないので四角なのであり、角はそのままであるから角であり、直線は分断されないから直線であり、光は影がないから光なのである」とする。

ここで述べられているのは、古の聖人の言であり、政治の妙が「善」にあるということである。これを詳しく言うならば「善」なる政治とは細かなところまで民を管理して住み難くするものではない。例えていうなら「四角なものを分かつことはないので四角なのであり、角はそのままであるから角であり、直線は分断されないから直線であり、光は影がないから光なのである」ということになる。つまり、このようにそのままであることが「細かな支配がなくなれば」ということなのである。まさにそれは「私」心を持たないからであり、知恵に依らず、心を正しく持つからである。「分かつ」というのは「害する」ということになる。あまりに手を加え過ぎると害してしまうわけである。あまりに手を加えてしまえば、政治は民を害するものとなる。聖人は四角は四角のままとするのであり、円は円のままに使う。四角は四角で、円は円で使えるところで使う。つまり、その場その場に応じて使うという「理」が保たれることになる。どのような場合にも四角を使うのではなく、時に応じて使う。円もそれにこだわるのではなく、場合に応じて用いる。そうであるから適宜である「理」が害されることはない。つまり、あえて四角を使わないという「理」に執着してしまっても、そこでは無為の政治が失われることになる。そうであるからここに述べられている「四角なものを分かつことはないので四角なのであり」とは、やりすぎないということであり、とらわれないということである。それはまた「角はそのままであるから角であり」ということであり「そのままで」ないと角を傷つけるからである。人は普通に生活をしていれば、その食が保たれていることを知っているので、そのために政治を必要とすることはない。聖人は民の心を心としており、貪りの賎しい心を心とすることはない。廉潔を元として、それを心としている。廉潔を政治に施す。そうすれば全てはうまく行く。全ては欠けることがなくなる。そうであるから中正の理を失って、己の「一」を守って欠けることがない。そして政治をあえて為すことを止め、その「理」を欠けることのないものとする。欠けることのない「理」を用いれば、天下、国家は、欠けることのない「理」が行われることになる。自己を修めて、他人を治める。ここに欠けることのない徳とその実践がひとつとなる。徳と実践がひとつになっているのであるから、政治が傷つけられることはない。ここにある「四角なものを分かつことはないので四角なのであり」とは、大体において以上のような意味である。正しいことを通せば「真常の理」が失われることはない。これは「理」を通すということを「直」で表現している。「分断」とは多くの部分に分けることである。これでは、いろいろな方向が生まれてしまい、人としては耐え難いものとなろう。政治を行うことにおいては、もとより一貫している「直」を重視する。これは中正の道に人を導くものである。無私をして政治に臨み、心に曲がったところはなく、よく人々を善へと導くのみである。物事に曲がったところがなければ、民は正しく導かれることになる。こうした時に「直」が用いられることがなければ「分断」が生じることになる。自分勝手な思いのままにして、民の情を顧みることがなく、自分の思いのままに時期の適切であることを考えることもない。あえてやり過ぎることもなく、不足することもない当然たる正しさによれば天下のあらゆるところに「直」が行われ、国政において治まらないことはなくなる。ここにある「直線は分断されないから直線であり」とは、おおよそにおいて以上のような一貫した政策を行うという意味となる。「理」が全く明らかであれば、事象において全ては明らかとなる。これをここでは「光」と述べている。光がないところは、自ずから光を得ようとする心が生まれるであろう。こうした状態が「影がない」である。聖人の心は光り輝いている。つまり人の心の「天徳」や物事の「至理」が、あらゆるところで明らかとなっているのである。ただし聖人の心の光は、普通の人の心の光とは違っている。普通の人の心の光は外に向かって輝いているが、聖人はよく内に向かっている。性情の正しさを極め、天の理の全てを明らかにしている。そうなれば天地の事物においてその「理」の明らかならざるものはなくなる。造化の細かなところまで顧みて、明らかでないところはない。ただ、人は「理」の光の中の虚無の元機をよく知ることはない。光の中で光ることのないものの神化を人はよく見ることはできないのである。それを養うこと深く、それを厚く積み、乱れた思いのあることなく、誠が存していれば、その本源に至ることができる。機智を用いることはなく、心の光の妙用の大いなる働きの細かで隠されているとことを知れば、自ずから内に光のあることが分かるものである。そうなれば「上」は天の道とひとつとならないことはなく、「下」は地の理を知ることが可能となり、そして「中」にあっては人々の心とひとつになれる。そうであるからここでは「光は影がないから光なのである」と述べている。それはおおよそこうした意味なのである。この章で述べているのは、上にある者が中道を失って政治をすれば、下にある者も中道を失うことになる、ということである。上下に中道が失われてしまえば、上からの細かな支配がなくなることはない。そうなると下では性の理が完全であることはない。上と下とが適切にあることなく、互いが正しきを失っている。あるいは正しさが邪となってしまっている。あるいは善が悪となってしまっている。こうした混迷が長く続くと、あらゆるところにその影響は及ぶであろう。そうであるから老子は丁寧に繰り返し述べている。一つは救民における混迷状態にあっては民をして本来の性に復させることであり、二つにはそれによって天下を修復することである。無為の政治を行うこと、老子は深く天下の後世の者に望むところがあったのである。


〈奥義伝開〉ここでは「四角」「角」「直線」「光」として訳している「方」「廉」「直」「光」を心の状態として読まれることもある。つまり「方」は方正で、「廉」は清廉、「直」は直なる心、「光」は輝く知恵とするわけである。しかし、それでは何故ここで突然、心のあり方が言われるのか理解に苦しむ。一方、宋常星は「方」は四角で、「廉」は角、「直」は直線、「光」は光として、有為を加えないことをいうものとする。しかし、これは相対的な関係にあることをこの前の文章と同様に述べていると解するべきである。つまり「方」は四角が四角として認識できるのは、それを分割しているもの、例えば三角などがあるから四角が認識される、と読むべきで、以下の「廉」の角も一見して角の見えない円や直線があるから、90度などの角があればそれが角として認識される。「直」は点があることで線が認識される。「光」は影があることで光と認識される、ということである。あらゆるものは相対的な関係にあるのであり、我々の認識もそれによっているわけである。


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