宋常星『太上道徳経講義』(58ー5)
宋常星『太上道徳経講義』(58ー5)
「正」もまた「奇」となる。「善」もまた「妖」となる。ここに人は困惑してしまって、どうすることもできなくなる。
ここで述べられているのは、この世には絶対的に「正(法則に合ったもの)」なるものだけではない、ということである。先には「福」は「禍」へと転じ、また「福」は「禍」へと転ずるということで、絶対的な「禍」も「福」も存してはいないことが述べられた。それは全てが「上」にあれば「下」を知ることはできないという理である。絶対的に「正」なるものがあるわけではないというのは「正」なるものだけでは、それが「正」なるものであると認識することができないというだけではなく、また「正」なるものの中には同時に「奇(法則を超越したもの)」も存しているということである。「善」はまた「妖」でもあるということである。「正」と「奇」は根本的には同じではない。「正」の状態も、それが長く続けばそれは自ずから「奇」へと転じて行くのであろう。こうしたことにおいても一方が極まれば別のものに転ずるという理が働いているわけであり、君子はこれを知っている。そして、そうであるからどうして「正」であるのかを知っているのであり、あえて「奇」へと転ずることを考えはしない。あえて追究を行わなければ「善」も「妖」へと転ずることはない。しかし、一般の人はこうしたことを考えることもない。一般の人は、こうした「造化の理」を知ってはいない。「進退存亡の理」を知ることはないのである。「妖」や「善」が生まれる「理」を明らかにすることができないので、人々は迷ってしまう。それは一日で終わるようなものではない。ここで述べられている「『正』もまた『奇』となる。『善』もまた『妖』となる。ここに人は困惑してしまって、どうすることもできなくなる」とあるのは、こうしたことを言っているのである。
〈奥義伝開〉ここでは「禍福」「正奇」「善妖」などの相対的な関係にあるものが、互いに転ずることのあることが示されるだけではなく、そうした転換が生まれるのは「禍」の中に「福」が潜んでいるからであり、「福」の中にも「禍」が含まれているからであるとする。「攻撃は最大の防御である」というのも「攻撃」の中に「防御」が含まれているからであり、また「防御」の中にも「攻撃」は含まれている。太極拳や八卦拳などで「闘争」を学ぶのはその中に「和平」が含まれているからである。これを知らないで単に「闘争」だけを学ぶのであれば、それは太極拳や八卦拳では迂遠な道のりということになろう。「闘争」だけを知ろうとするのであれば、表面的な戦いの方法を学べば良い。格闘術を会得すれば充分である。一方で「闘争」を極めるには体と心との関係を深く知らなければならない。そこに「闘争」から「和平」への道が開かれる。それは本来の心の働きである「性」が「善」にあると考えるからである。生命を保持する最も合理的な手段は「闘争」よりも「和平」にあることは言うまでもあるまい。「闘争」状態にあるには心身の緊張が求められる。しかし人は常に心身を緊張した状態にあらせると心身を害してしまう。こうした経験から儒教でも道教でも人の本来の心のあり方である「性」は「善」であると考えるようになったのである。