宋常星『太上道徳経講義』(57ー11)

 宋常星『太上道徳経講義』(57ー11)

(聖人である)自分は無情であるから民は自ずから清らかとなる」と言っている。

喜、怒、哀、楽、愛、欲は、全て情の動きによるものである。情が理のままに動けば、それは正しい行動となる。しかし無闇に働いたならば全く正しい行為は取れなくなってしまう。ただ聖人の情においては分別が加えられることはないし、好悪が生じることも全くない。自分の感情に振り回されることは全くないのである。そうであるから情は、それが徳から生まれた情であるならば、そこに私的な欲望の動くことは全くないのである。天の理からすれば私欲を用いることはできない。理という観点からは自然にそうなる。内的なことでは無為による悪事は、無為であれば情が働いて私欲による考えが生ずることはないのであるから、無為であれば悪事は行われ得ない。外的に無為が働くと、それは外的な行動は内的な思いに呼応しているのであるから、無為であれば情が私的な欲望によって働くことはないので外的にも悪事は生まれない。こうした内外の呼応は聖人の情でも人々の情でも同じである。人々の情と聖人の情は共に真から出ているのであり、そうであるから民の心も本来は清らかなのである。それは聖人の無欲と等しいものなのである。ここで述べられている「自分は無情であるから民は自ずから清らかとなる」は、こうしたことになる。ここで聖人の言っている、とされる発言は、老子が古くから伝えられている「聖人」の言を引用しているのであり、「正」をもって国を治めることと同じである。国政を預かる者はここで述べられていることをよく知っておくべきである。


〈奥義伝開〉「清」も「善」のひとつの現れである。「無情」とは過度な欲望による感情を持たないということである。喜怒哀楽に振り回されないということである。静坐では喜怒哀楽のあることは否定しない。それに過度にとらわれなければ良いとする。喜怒哀楽はそれがあるからより良く生きることができるという側面もある。あらゆる人のもっているもの内的なものも、外的なものも、生きるに必要なものと考える。それは儒教でも道教でも変わりはない。重要なことは「欲望」を適切に使うことにある。そのための秘訣が「無為」「無事」「静」「無欲」「無情」なのである。


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