宋常星『太上道徳経講義』(57ー10)
宋常星『太上道徳経講義』(57ー10)
(聖人である)自分は無欲であるから民も自ずから素朴(樸)となる。
私念の生ずるのは欲においてである。「樸」とは、心がそのままに働く状態にあることであり、聖人はそうした境地にある。それは日月が天に輝いているように、あらゆる物に及んでいる。つまり、あらゆる物は空なのであり、天下は広大であるとしても、その理は聖人の有している理と何ら違いのあるものではない。いろいろな人が居たとしても、その理は聖人の持っている理と同じである。つまり無欲をして己を修めているに過ぎない。つまり聖人は無欲をして人を導くのである。農事をして食べ、井戸を掘って飲水を得る。これら全ては意識することもなく、思いを及ぼすこともなく当たり前のこととして行われる。民は倫理を守り、天の秩序のままに居る。いろいろと思いを巡らせて利を得ようとすることもなく、何かを企むこともない。ただ「樸」で居る。つまり聖人は無欲(=樸)であるということである。ここで述べられている「自分は無欲であるから民は自ずから素朴となる」とはこのようなことである。
〈奥義伝開〉「樸」とは加工されていない木のことである。無欲であれば、人の本性である「善」が発現される。つまり「樸」であれば「善」であるということである。武術において「静」から「柔」を得て心身が「樸」を得ると争う気持ちが無くなってしまう。そこにこそ本当の武術の意義がある。一方で格闘術としての「武術」も世界には存している。中国や日本ではそういったものとは違う方向で武術が発達させられて来た。これが「武芸=格闘術」と「道芸=修養術」の違いとされる。「武芸」は人が後天的に得た欲望に発するものであり、「道芸」は先天的に有している「性=善」によっている。自然であるのが「道芸」であることは言うまでもあるまい。