宋常星『太上道徳経講義』(57ー9)
宋常星『太上道徳経講義』(57ー9)
(聖人である)自分は静を好しとしているから民も自ずから正しくなる。
古い時代の聖人は、虚心であり恬淡(てんたん こだわりがない)としていて、よく無為を守っていた。天下とはそもそも無声、無臭な存在である。そして天下には「目」も「耳」もないのであるから見ることも、聞くこともできはしない。そうであるから「天下」は静なのである。つまり天下の造化は静をして為されているのである。あらゆる物は静から生まれている。そうであるからあらゆる人の善悪は静によって正されるのである。天下は静であるが、天下そのものが静を選んでいるのではない。静は静であろうとしてそうなるのではなく、自ずからそうであるのである。これが静の理である。こうした理がそのままに行われていれば、天下の理もそのままに行われることになる。そうなれば天下の民は天の理のままに正しくあるようになる。そうしたことを「自分は静を好しといるから民も自ずから正しくなる」と述べている。
〈奥義伝開〉「静」であると人の本来の心の働きである「善」が発現するようになる。そして民も静に同調したなら等しく「善」が現れるようになるので、その生活は「正」しいものとなる。冒頭の国を治めるのに「正」をもってするとあるが、そうなるには統治をする者が「静」でなければならないわけである。「静」を好むような人物でなければならないということである。武術では「静」であれば心身の緊張がなくなり「柔」が得られる、とする。これが心身のあるべき状態であるから、こうした状態からは「善」なる行為、「正」しい行動が生まれることになる。