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お知らせ

 3月13日より配信方法を一部変更します。 今後は月と木に、まとめて配信します。 月曜は従来通りの「老子」と「丹道逍遥」が隔週となります。 木曜はこれまでと同じ「道徳武芸研究」です。

宋常星『太上道徳経講義』(61ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(61ー6) それぞれは、その欲望のままにことを行っているわけである。そうであるから「力のあるもの(大)」はよく「受け身(下)」であるべきなのである。 ここでは、この章の総括が述べられている。まとめともいえる部分である。大国が小国を「受け身(下)」であると見なせば、小国は大国の威に従属することになる。しかし、そこにおいて大国は徳を抱き恩を施すべきである。また小国が大国を「受け身」であると思うと、その従属は大国を国家の枠を越えた普遍的な存在と見なすことになるのであり、虚心で自己に執着することなく(大国に「臣下」として仕えるという)徳を行うものとなる。しかし謙譲や卑下をすることなく大国であることの威を堅持していれば、例え小国に従属する気持ちがあっても、決してそれが実行されることはなかろう。こうした状況にあっては小国は自己の力の無さを認識することもなく、小国、大国がそれぞれにかってな思いを持ち、大国も小国を併合することにおいて徳を行うことがない。今この二つの国が、それぞれがあるべき状態にあるとすれば、おおよそ大国も小国への思いやりを持つことであろう。また小国は大国が徳を実行しよとする志をよく受けて、それぞれの思いをひとつにして、共に一心となるであろう。つまり共に大国であるとか小国であるとかにこだわらないということである。そうであるから大国は小国の存在を保証するものとなるのであり、小国は大国を助けることになるのである。天下の大きさとは、多くの国があるということにあるのであるが、そうした中にあっても大国は重んじられる。そうではあるが大国は「受け身(下)」の立場にあらなければならない。こうしたことが「そうであるから『力のあるもの(大)』はよく『受け身(下)』であるべきなのである」として述べられている。この章は、大国だけではなく、小国であっても虚心であり己に執着することがないようにしなければならないと教えている。それは「受け身(下)」であり謙譲の徳を持つということでもある。大国が小国に対してただ「より蓄えようとする(兼蓄)」欲望だけで併合に動いたならば、小国は大国に従属することでしか存続して行くことができなくなってしまう。ただこうした時でも小国が主従の徳(忠)を行えば、それによって大国に徳化の影響を及ぼすこともできよう(礼)。修身の道を考えてみ...

道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(4)

  道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(4) 踏み込む蹴りが「採腿」であるのであるが、そうであるなら相手を捉える「採」はどこに見られるのであろうか。右手で相手を捉えるところであろうか。そうではない。これは八卦拳を見ればよく分かる。八卦拳では暗腿や截腿があり、これを七十二種類あるなどとしている派もあるが、暗腿や截腿は拳理であるとするべきであろう。暗腿を広い意味で「相手から見えないところでの腿法」とすれば、暗腿の中に截腿は含まれることになる。「採腿」の形からいうなら相手の膝や脛を蹴って出足を止める截腿はまさに採腿そのものである。ちなみに狭義の暗腿は「入身で相手の死角に入ってからの腿法」で、入身で相手の前足の奥にまで入って、足を掛けて体勢を崩すのが暗腿となる。実は太極拳の採腿にも、この動きが先に含まれている。そうであるから「採」腿なのである。先ずは相手の体勢を崩して、そして相手がバランスを崩して前に倒れて来た時に踏み込むように蹴るわけである。八卦拳ではこれを扣歩というが「扣」には「ボタンを掛ける」という意味がある。ちなみにこの腿法には「掛」字訣がある(相手の足を引っ掛けるという意味)。つまり暗腿には明確に「採」の働きが見られるのである。ある意味で採腿で肝心なのは、最後の蹴りよりも始めの崩しにあるといえるであろう。野見宿禰が相手のあばら骨や腰骨を踏み砕くことができたのは、足を使っての崩しを用いていたからと考えられるのである。そして陳炎林が採腿を「秘伝」として最後の蹴りしか示していなかったのは、その前に「採」のあることを暗示していたわけなのである。

道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(3)

  道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(3) 陳炎林は採腿について「足心で相手の膝頭を踏む」ようにするとある。この腿法は形意拳の狸猫倒上樹でも見ることができる。狸猫倒上樹は龍形拳と似ているが、狸猫倒上樹の重心は前足に移るのに対して龍形拳は後ろ足のままである。採腿と同じ「踏み込む」勢いを持つのは狸猫倒上樹の方である。龍形拳で重心が後ろにあるのは「上」へと出るためである。「上」に出て左右の足を入れ替える。これで相手を引き倒そうとするわけである。一方、狸猫倒上樹は「下」に踏み込むような勢いで、相手の膝を踏み砕くのを主たる動きとする。それに対して狸猫倒上樹で「倒」とあるように、その見た目は「狸猫(ジャコウネコ)」が樹を登るようではあるが、これの技が踏み込むところにあるためにあえて「倒」の字を加えているのである。つまり狸猫倒上樹では勢いは「上」ではなく「下」になる。形意拳でも狸猫倒上樹はどの技においても暗蔵(見えない形で含まれている)されている。おもしろいことに孫派では足を上げるだけで、あえて前に蹴る動きを明確にはしないようにしている。それはより「採」を強調した動きにするためである。このように形意拳でも太極拳でも足を出して踏み込む時には全て採腿が暗蔵されているのであり、そうであるから陳炎林は太極拳で「多用」されていると述べているのである。

道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(2)

  道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(2) 採腿の特徴は「踏み込むように蹴る」にある。ここで興味深いのは相撲の起源とされる野見宿禰と当麻蹶速との試合で、野見宿禰が当麻蹶速の肋骨と腰骨を「ふみ折った」とあることである。相撲に関心のある人からはこうしたシーンが理解できなく、倒れた当麻蹶速を蹴っているとする絵もあるようである。確かに肋骨や腰骨を蹴り折る程の威力を考えたならば倒れている相手への蹴りとするのは妥当であるかもしれない。しかし、そうであるなら倒してという描写がなければなるまい。『日本書紀』では「互いに蹴りあって」とある後に「ふみ折る」という事態があったことを記している。考えられるのは、この時「採腿」が用いられたのではないかということである。それは「採腿」が強力であるとされていることとも合致している。「採腿」は沈身の拳訣を得ればこのように強い蹴りとなるのである。

道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(1)

  道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(1) 陳炎林の『太極拳刀劍桿散手合編』には「採腿」について触れた部分がある(採は足篇の場合もある)。そこでは、この腿法は秘伝であり、太極拳では多用されているとも述べている。これはトウ脚に似た腿法であるが同書の説明には右手で相手を引きつけて、左掌で相手の顔を打つと共に、右足で蹴る技となっている。疑問となるのは、こうした腿法が太極拳の中で「多用」されているか、という点である。蹴り方からすればトウ脚が近いが、それは套路の中で多くは出てこない。ただ重要なことは採腿が踏み込むように蹴るとしていることで、トウ脚のように前に蹴るのとは違っている。拳理からいうと採腿は太極拳の四正四隅の拳訣である「ホウ、リ、擠、按、採、肘、レツ、靠」の中にある「採」にあたるものとされる。あるいは「採」腿があえて足篇にすることがあるのは、この時の「採」が手ではなく足を用いるものであるからであろう。しかし「採」は四出四隅の拳訣では「原理」を示すものであるからあえて「捉える」という行為を手と足に分ける必要はない。ただ採腿では実際のところ「足」の使い方に重点があるのはまちがいのないことではある。

宋常星『太上道徳経講義』(61ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(61ー5) つまり「受け身(下)」にあるとみなされたならば、そのれは相手からの収奪を受けるのである。こうしたことからは大国では「より蓄えようとする(兼蓄)人」と同じであり、小国では「介入しようとする(入事)人」と同じようなことを見ることができるのである。 ここで述べられているのも先の文の補足である。「受け身(下)」とあるのは先に「大国があえて小国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見た」や「小国が大国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見た」ということである。ただ自然にあっては大国は天であり、小国は地である。天は尊くそこには君子の道が行われ、地は卑しく臣下の道が行われていている。つまり大国の君主は、その徳が天の如くであって虚心で己に執することがなく、それは太虚があらゆるところに及んでいるのと同じで、あらゆるものを育んでいるのである。一方で小国が「受け身(下)」であるとは、小国の君主は機能させられないのが当然であり、その徳は地の如くで柔順であって、その根底(坤元)にあるのは天の徳をあまねく受けることなのである。天の徳に柔軟に順じる。これが地の徳といえる。また大国が「受け身(下)」であると小国が見たならば大国も侵略を受けることになる。こうしたところからすれば大国が「受け身(下)」であって小国を攻撃する気配がないならば小国は大国を侵略しようとするであろう。これは小国も自己が「受け身(下)」であると見なされると侵略されるのと同じである。こうしたことは「より蓄えようとする(兼蓄)人」と同じであり、このように動くのは小国でも大国でも同様で違いはない。その大小は関係なく、すべからく人の心を「受け身」であるように育てて行く。そうなれば「天下は一家」となり、小国や大国の差異も生じなくなる。こうして天下を化育して、あらゆるところに徳を及ぼす。しかし現実は往々にして「大国はただ『より蓄えようとする(兼蓄)』の人と同じ」なのであり、また「小国はただ『介入しようとする(入事)人』と同じ」である。そうであるからよく「受け身」で、勤勉に働き、上に奉仕して終日、慎み深くあって、世の一隅を守るようにすべきである。そうすることが、よく民を治めて、その身を保つことになる。そうして国を安定させて君臣は共に大国に見られるような「より蓄えようとする(兼蓄)」な...