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道徳武芸研究 真人の呼吸と八卦拳「脚心空」

  道徳武芸研究 真人の呼吸と八卦拳「脚心空」 後にも触れるが『荘子』に真人は「踵」で息をしているとある。ただ、この一節は難解とされており一般的には「深い呼吸」と解説されていることが多いようである。しかし「深い呼吸」というだけでは、それがどのように真人とつながるのかが分からない。およそ真人とは「本来の人」のことで、人としてあるべき状態にある人のことをいう。それが実現された形として「踵」での呼吸を『荘子』ではあげているわけである。こうした呼吸は八卦拳では「脚心空」として提示されているものと同じである。 「脚心空(足心空)」は八卦拳の三空のひとつで、他には「掌心空」「胸心空」がある。それぞれ「脚」や「掌」「胸」が「空」であることを良しとする教えである。「空」とは滞りのない状態のことで「脚心空」は湧泉が、「掌心空」は労宮が、そして「胸心空」は膻中が活性化することを意味している。これらの経穴が活性化することで全身の気血の流れが正されるというわけである。 また『荘子』には「真人の息は踵をもってする」とあるのであるが、これは踵を浮かせた身体の状態をいっている。日本の草鞋や雪駄には「踵」はなく、足の踵ははみ出した状態で履くものであって、こうしたことからかつての日本人は歩く時に踵を浮かしていたことが分かる。そうなるためには歩く時に重心が前になければならない。中国の靴も靴底は平たく特に「踵」は設けられていない。こうした前に重心のある姿勢となることで気血の円滑な流れが促進されるわけである。たしかに小さな子供は前に重心があるので転ぶ時に前に倒れる。一方、老人は膝が開いており重心が後ろに来ているので、往々にして後ろに倒れて大怪我をすることがある。そうしたことから生命力に溢れる真人は前重心でなければならないと考えたのであろう。 こうした教えは現在では八卦拳を始めとした武術に見ることができる。多くの八卦「掌」は一見して後ろに重心があるように見えるが八卦拳は重心を前に置く。これは武術的には「出足」の速さを得るためでもある。武術以外でも瞬発力を必要とする運動のほとんどは前重心になっている(野球、バスケットボールやボクシングなど)。また選手によっては五指の分かれた靴下を履いているようで、これは足の指で地面を掴むことで前重心を作り出そうとしているからである。こうした方法は形意拳で鶏足と称してい...

宋常星『太上道徳経講義』第六十九章

  宋常星『太上道徳経講義』第六十九章 (1)「兵」とは「不祥の器」である。それを使うのはどうあるべきか。それは「道」において用いられなければならない。そして、それは争わないことを第一としているべきである。 (2)つまり退いて争うことがないのである。相手を従えようとは思うことなく、相手を殺そうとも思わない。 (2)その上で相手に勝ることができている。あらゆる人の命を全うすることができている。 (3)もし宝物を得たなら軽々にそれを失おうとは思わないであろう。もし他人を宝物と思うことがなければ、ただやる方のない思いを他人にぶつけるだけであろうし、蛮勇を奮って相手を軽んずるだけとなろう。そうなれば容易に相手を傷つけてしまうことになる。加えて災いは国家にも及ぶことになる。 (4)またこれを敷衍すれば、それは修身であり家を整えることにも通じ、あるいは国を治めて天下泰平であることにもなる。こうした「理」は全てに共通している。もし、この「理」をよく理解し得たならば、こうした結果を通して逆に道そのものを知ることができるであろうし、受け身(弱)であることが道の働きそのものであることも分かろう。道はいろいろな現象の中にその働きを示しているのである。 (5)この章では進退、得失についての教えが示されているが、多くの人は、そえがどうあるべきかを考えることなく、ぼんやりしていて悟ることがない。そうして生涯を終えている。そうであるから老子は用兵の法を例えとして憐れむべき世人に教えを垂れているのである。 1、用兵を言うならば「自分はあえてそれを主体的に用いることなく受け身である。あえて少しも進むことなく、大きく退くのである」ということになる。 (1−1)用兵の道について古人の言がある。それは主体とならない、ということであり、受け身となるべきということである。それは、あえて少しも侵攻することなく、大きく退却することでもある。 (1−2)一般的に用兵の第一は主導権を取ることにある。用兵において遅れを取ると、受け身となってしまう。 (1−3)知勇をして兵を用いれば侵攻は可能となるが、自分の知勇を誇ることがなければ、それは退却を選ぶことになろう。 (1−4)兵とは凶器である。必ずやむを得ない時にのみ用いるべきである。そうでないのに妄りに用いて、先んじて攻撃を仕掛けてしまう。一旦、戦いが始まれば悲...

道徳武芸研究 三元と「合気上げ」神話の超克と〜剣術から柔術へ〜

  道徳武芸研究 三元と「合気上げ」神話の超克と〜剣術から柔術へ〜 三元は古神道でいう「一霊四魂三元八力」の中の「三元」で、これは「剛、柔、流」をいう。これは物質が固体、液体、気体であることからイメージしたものと考えられるが、剛と柔は共に固体の様態であるからこれであれば気体がないことになる。植芝盛平が三元に「気」を加えているのは物質の三態に合わせたものとも解釈できるが、盛平の考え方からすれば合気道の実戦的な感覚からあえて三元に「気」を加える必然を感じていたものと思われる。そうであるからこれは四元ではなくあくまで三元であり「気」は三元すべてに及び、それを統合するもの(むすび)でもある。 ここでは三元を「合気上げ」を通して見てみたいと考えている。つまり「剛」は大東流の「合気上げ」、そして「柔」は合気道の「呼吸力養成法」、「流」を「臂力の養成」に比定して、これが剣術から柔術へと変化して行く中で「合気上げ」の必然の変化として考案されて行ったものと考えるわけである。 大東流は剣術の裏技として誕生した「合気上げ」の手法から近代になって武田惣角により柔術化が図られた。剣術には裏技として柔術が付属している場合が多い。一方で近世に発達した柔術には、こうした剣術に付属するものの他に、相手を取り押さえたり剣術に対する護身の技術があった。大東流に有効な柔術技である足払いや腰投げがないのは、刀を指しているからとされる。つまり刀を指しているので相手を引き付けるような方法は取り難いわけである。また「合気上げ」がただ「上」に挙げるだけなのは、抜刀を前提としているからである。それは両手で押さえられた時に如何に抜刀をするか、を考えて考案された技術なのである。刀を使われては圧倒的に不利になるので相手は必死で腕を抑えに来る、こうした状況が想定されて「合気上げ」は考案されている。 そうであるから「合気上げ」は、押さえる方が肘の力を抜いてしまえば「合気」は掛からなくなってしまう。大東流の名人とされた人物が水戸黄門で有名な女優に「合気上げ」を掛けられなかったのは合気道の「呼吸力養成法」では強く押さえることをしないためで、つまりは肘を含めた腕全体に力を余り込めていないためであった。相手が強く抑えていないのであれば、こちらはそのまま抜刀をするだけなので、あえて「合気上げ」を使うこともないわけである。 このよ...

丹道逍遥 映画「巫女っちゃけん。」に見えるカミ意識

  丹道逍遥 映画「巫女っちゃけん。」に見えるカミ意識 映画「巫女っちゃけん。」は2018年に公開された広瀬アリス主演(しわす役)の映画である。「光の道」で有名な宮地嶽神社がロケ地となっている。しわすは宮司の娘で巫女をやっているのであるが、周囲の人たちが、ただ「因習」に従っているだけのように思えて、外の世界に出ることを希望している。会社を受け続けているが、なかなか受からないままいろいろな出来事を経験して、巫女も良いのではないか、と思うようになる、という話である。 なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる これは西行が伊勢神宮で詠んだ歌であるが、この歌ほど神社神道をよく表現しているものもあるまい。歌意は「どのようなことがあられるのかは知らないけれど、恐れ多さで涙がこぼれてしまう」ということになろうか。このように神社神道における「カミ」とはそれがどのような存在かは分からないが、何か心に感じるものがある存在なのである。これを本居宣長は「もののあわれ」と言っている。「もの」は霊であり、「あわれ」は「あ!われ!」と霊的な感動が自覚されることである。どうしてそうなるのか分からないが霊的な感動がある。これは神社信仰の基本であると同時に日本人の霊性の特徴でもある。 この映画はこうした神社神道を舞台としている。その上でカミなるものが人々とどのような関係において存在しているのかを、よく描き出している。柳田國男は神社神道について、ただ祭祀を続けているだけであったので、古い民俗を保存することができている、としているが、まさにこうしたところを、この映画では見ることが出来る。カミについて神職らはただ「居る」というだけで、どうして居ると言えるのか、どのようなカミなのかを考えようとはしない。こうしたことをしわすは因習にとらわれている、と考えているようである。しかし曖昧であることで、かえっていろいろな人の思いを受け止めることができていることに気づき「神社」というものの存在意義を知る。そして合格通知が来たのにも係わらす「巫女」も悪くないと思っている自分に気づく。 神道の根本は「自然崇拝」である。そして「民俗行事」としての習俗がベースとしてある。これは各家で行われるもので、水のカミや火のカミなどを祀ることが多く、その中心は女性である。ただ現在はこうした祭祀は行われな...

道徳武芸研究 太極拳「単鞭」学〜太極拳学試論〜

  道徳武芸研究 太極拳「単鞭」学〜太極拳学試論〜 単鞭は比較的形に違いの少ない楊家系の中でも特異な差異を見せている興味深い技法である。また陳積甫はこれを「丹変」として記している(『陳氏太極拳入門総解』)。また単鞭はイスラム教神秘主義のスーフィーの舞とも酷似していることなどからしても、陳積甫の伝える「丹変」なる名称が何か意味深いものを示唆しているようにも思えるのである。以下では単鞭を歩法と手法の二つの面から考察して行きたいと考える。 太極拳は楊家に伝わるものが本来の張三豊の創始した太極拳であり、その系統から陳家、武家、呉家が分かれ、武家の系統からは更に孫家が派生した。歴史的には楊家を北京に伝えて広く太極拳が知られる嚆矢となった楊露禅は陳長興から太極拳を学んだことから、陳家の太極拳から楊家は派生したと誤解している向きもあるが、楊家と陳家では拳理の異なることは誰が見ても明らかであろう。現在の陳家の太極拳は実質的には陳長興により作られている。陳一族の住む陳家溝では通臂拳の影響を強く受けて独自の拳・砲捶が創始されており太極拳も、その理論によって改められている。そのため楊家から派生した武家、呉家、孫家は基本的な拳理は共通であるから大きな違いはないが、陳家だけは拳理が異なるのでこれをひとつの「太極拳」として見るのが妥当かどうかの議論もある。 そこで単鞭であるが、その歩法と身法は以下のような違いがある。 楊家 弓歩  前向き 武家 弓歩  横向き 呉家 馬歩  横向き 孫家 反弓歩 横向き(反弓歩という語はないが、重心を後ろ足においた弓歩ということである) 陳家 弓歩  横向き これらからは重心が弓歩の「前」から馬歩の「中」そして反弓歩の「後」へと移動していることが分かる。また同じ弓歩でも陳家は身法が完全に「横」を向いているので重心は全く「前」にある訳では無い。つまり一般的な弓歩からすれば、やや「中」へと移動していることになる。こうしたことが起こるのは単鞭が太極拳の「採」を用いるものであるとする解釈によっているからである。右手で相手の右手を掴んで(採)、引き込もうとすると重心はより後ろにあった方がやりやすいことになる。 ちなみに十六世紀の兵書である『紀效新書』では単鞭と似た技法に拗単鞭と一条鞭とが挙げられている。これらは共に弓歩であるが、単鞭は「拗」とあるように左手と右足...

宋常星『太上道徳経講義』第六十七章

  宋常星『太上道徳経講義』第六十七章 (1)天の道は争うことなく変化をして行く。聖人も争うことなく万民は自ずから感化される。 (2)これは物それぞれが、それぞれのあるべきになる、ということである。 (3)その働きは無為において行われる。それは、ただ個々の物の本質に帰るに過ぎない。あらゆる物は無為であれば、あるべきようにあることができるのである。 (4)無為とはつまり「弱」くあることで、それによりかえって「強」い働きが現れるのである。 (5)怒ることのない人は、その「勇」を完全に履行することができる。それは怒りによって目的が限定されないからであり、また怒りがなければ、どう働いて良いかも明らかになる。 (6)よく自分を「下」に置けば、多くの人は自ずから服するものである。それは道によっているからである。 (7)兵を用いて敵に対する。そうなれば敵との完全対立となる。争えば国であれば国を保つことは難しいであろう。 (8)自己を修して自己を治める。それは道のままなので容易に行うことができるであろう。その修行を成就することも難しくはない。 (9)天地は天地のままであるからそのままに存している。聖人は、人そのままであるから聖人たり得ている。 (10)争わないことには終わりはないし限りもない。 (11)このような教えが、この章では説かれている。争わないとを、用兵の道をして、どういったことなのかを明らかにしている。 (12)こうしたことを軽んじていれば、よく自らを滅してしてしまうことになろう。深く自己の内奥に沈潜して、自分を前に出すのではなく謹んでいることが大切である。 1、よく真の人であれば、武力を用いることはない。 (1−1)「善」を行うことは最も好ましいことであり、真の人はそうである。 (1−2)争うとは武力を以て対することであるが、真の人は身を争いの外に置いている。 (1−3)どのような軍隊であっても、それがどのように働くかは、その武力が外に向けて発せられるところに見ることができる。 (1−4)これがどういったことかと言えば、そうしたことを行うのは「不善」の人であるということになる。 (1−5)善なる人とは、その武力を表すことなく、他人に使うこともない人である。その勇を隠して他人に見せることのない人である。 (1−6)優しい態度で他人に接しても、相手はそれに服してしま...

道徳武芸研究 文と武の鉄布衫〜排打功の真義〜

  道徳武芸研究 文と武の鉄布衫〜排打功の真義〜 武術には相手の攻撃を避ける方法があると同時に、その攻撃が当たってしまった時に対処する方法も考えられている。勿論これは中国武術だけに限るものではなく、あらゆる武術に一応はそうした方法が用意されているといえよう。そうした対処を練る方法を中国武術では排打功という。またこうした功法は鉄布衫(てつふさん)と称される。英語圏ではアイアン・シャツとして知られている。日本でいうならば鎖帷子(くさりかたびら)のイメージであろうか。こうしたことがどうして可能かといえば「運気」によるとされる。「運気」はどうして行うかといえば「呑吐」という呼吸法によるとされている。つまり呼吸により全身に気を巡らせることで打たれ強い「体」を得ようとするわけである。 鉄布衫には文の法と武の法がある。この違いの根本は「呑吐」の違いにある。激しい呼吸で全身の緊張を促すような方法は「武」であり、反対に放鬆を起こさせるのは「文」となる。鉄布衫では攻撃が効くのは内臓に衝撃が及ぶからであると考えるので、ひとつには内臓全般に適度な衝撃を加えて衝撃に慣れさせるということがある。この時に当たった部位を緊張させて衝撃を断とうとするのが「武」の鍛錬で、力を抜いて衝撃を緩和しようとするのが「文」の鍛錬である。これは攻撃が体の表面に当たった時と、その力が更に体の奥に及ぶのにタイムラグがあるのを利用しようとするもので、当てられた時にリラックスをすることで皮膚の感覚でその力の及ぶ角度を察知して、その衝撃の方向を変えて威力を削ごうとするわけである。 「文」の鉄布衫を代表するものとしては太極拳の体当たり(靠)の鍛錬がある。太極拳では背中で互いにぶつかり合ったり、壁に背中で当たったりする。こうすることで内臓に適度な衝撃を与えるのであるが、当たった時に息を吐く。それによって放鬆を起こさせるわけである。太極拳では危機的な状況にあっても放鬆の状態にあるのが「自然」であると考える。往々にして人は危機的状況にあうと緊張して固くなってしまうが、そうすることでより事態を悪くしていると考えるわけである。『荘子』(達生篇)にも酔っ払いは車から落ちてもケガをしないとある。 一方、南派拳術でよく用いられる緊張を用いる「武」の鉄布衫には白鶴拳や空手の「三戦」がある。空手の三戦(サンチン)は白鶴拳と全く同じではな...