丹道逍遥 文始真経(三極扁 十一〜十五)方術から「道」を知る

 丹道逍遥 文始真経(三極扁 十一〜十五)方術から「道」を知る

方術は道士の行う呪術のことであるが、これには多種多様なものがある。ただ要するに方術とは何かにすがって自己の欲望を達成しようとするものである。『文始真経』ではこれに黒魔術のように他人に知られるのが憚られるもの、白魔術のように特に隠れて行う必要のないもの、そして調伏のように相手を倒そうとするものや愛敬のようにただ自己に有利に展開することを願うだけのものもある、としている。しかし、そうした行為に「道理」はないとする。それは、ただ信じて行うだけだからである。


「方術(道士の使う呪術)は天下に多くある。

或るものは晦(くら)いのを良いとするし、

或るものは明るいのを良いとし、

或るものは強いのが良いとし、

或るものは弱いのを良いとしている」

そして方術は単に盲信するだけで道理のないことを、

「こうした一つだけの価値観を持つのが方術である」

道理がないというのは盲信しているということもあるが、その他に自己の欲望が実現することが結局は「幸福になる」ことなのだろうか、という合理的な疑問があるのではないかと考えるのである。目先の欲望の成就がそのまま自己の幸福につながらない道理もあるわけである。それを、


「こうした一つだけの価値観にとらわれないのが『道』である」

とのべている。加えて、


「限定されないのが『道』である」

としている通りなのである。欲望を持つのは構わないが、それにとらわれ過ぎないことである。それが無為自然であり「道」と共にある生き方なのである。



(十一)

関尹子が曰われた。

方術(道士の使う呪術)は天下に多くある。

或るものは晦(くら)いのを良いとするし、

或るものは明るいのを良いとし、

或るものは強いのが良いとし、

或るものは弱いのを良いとしている。

(注 晦い、明るい、強い、弱いには具体的には黒魔術、白魔術、調伏、敬愛などとなろうか)

こうした一つだけの価値観を持つのが方術である。

こうした一つだけの価値観にとらわれないのが「道」である。


(十二)

関尹子が曰われた。

「道」にあっては最終的に何かが得られなければならない、といった具体的なものはない。

ただ得るべきものは「徳」である。

限定されないのが「道」である。

「道」には、これを行わなければならないというものはない。

世には禁忌や勧誡いなどがある。

限定されないのが「道」であるから、そうしたことを行うことが「道」である、とするべきではない。

聖人は何か特定なことを得たり、行ったりしようとはしない。

「勧誡」を実践すれば大体は、よく生きていくことができると思われるかもしれないが、そうしたものにとらわれるべきではない。

「禁戒」は、行うべきでないことであるが、これは守っても、守らなくても構わない。

そうしたものにとらわれるのが良くないのである。


(十三)

関尹子が曰われた。

「道」を聞いたら、それを行って、守ろうとする。

そうした人は、特にすべきことを持たない。守るべきことも持たない。

それは天(=自然)にあっては、行い守ることに執着すれば、そこでは必ず「道」が失われてしまうからである。

そうであるから「道」を朝に聞けば、(何も行うべきこともないので)夕に死んでも構わない、と思うようになるのである。


(十四)

関尹子が曰われた。

「情」にとらわれないのが聖人である。

「情」をよく使うことができるのは賢人である。

「情」を悪く利用しようとするのが小人である。

「情」にとらわれることがなければ、それは自然な状態のままにある。

自然のままにある「情」が行動に移されると善悪が生まれる。

善悪は自然に生じるのではない。

自分にとって不都合なことがあれば「情」にとらわれている人は、自分がそれを善いと感じているか、悪いと感じているのかを外に見せないようにする。

外的な環境によって、そうしたことが起こるのである。

「情」にとらわれるとは、自己の内にとらわれることであるから広い視野を得ることはできない。

この世に「道」が普遍的にあることを知ることはできないのである。


(十五)

関尹子が曰われた。

「聖人が、よく力行って、怠ることがないのが『道』なのである」と言われているが、行うべきを行うのが聖人なのである。

聖人が厳守しているのが「道」の実践である。

「道」を実践して止まないのは放たれた矢のようにまっすぐで止まることのないのと同じである。

「道」によるが「道」にとらわれることはない。

聖人が「道」を守ることは射ろうとする「矢(=道)」を握っているのと同じである。

つまり聖人が主導しているということもないし、「矢」が重要であるということもなく、等しくあるものとしてあるのである。


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