丹道逍遥 文始真経(三極扁 十六一〜二十)行法と教義を使う
丹道逍遥 文始真経(三極扁 十六一〜二十)行法と教義を使う
行法や教義は「悟り」などある目的を得るために使われる。しかし習得することが困難な行法や教義はそれを会得すること自体が「目的」となってしまい、それを使って達成されるべき本来の目的が忘れられてしまうことが往々にしてある。「道」を会得する修行とは「余計なものを捨てる」ことである。しかし「道」の修行をすればする程、行法や教義の蓄積が増えて来てしまう。そして「権威」というものをも得るようになってしまう。ある意味で修行者は「高位」になる程、本質から離れて行くということが言えるのかもしれない。また、一方であえて行法や教義を捨てようとするのも不自然である。結局は「惰性」でやれば良いのである。優れた行法や教義は心身の健康に有効であるとされている。それらはそれにより心身をあるべき状態にするのであるが「道」を得るための行法や教義はそれを修する過程そのものも「自然」であるのである。つまり優れた行法や教義は意図しなくても「自然=健康」でいることができている。こうしたものは「惰性」で行うことでとらわれから脱することができるのである。
(十六)
関尹子が曰われた。
もし修行や教義をして道を求めようとしても、
それらは共に「道」と融合することがなく無意味となる。
広く知識を得て、
いろいろな行法を修め、
あらゆる「適切」とされる行為をして、
あらゆる「適切」とされる教義を得ても、
そうしたことは「影(=参考)」であるに過ぎない。
そうしたところに「道」のないことは、
あたりまえであるということができるのである。
(十七)
関尹子が曰われた。
物事を積み重ねて何かを作るのは決して難しいことではない。
「道」をして物事を捨てるのは決して難しいことではない。
あらゆる物事は物事によって成っている。
しかし、とらわれがなければ、その執着を離れることは容易なのである。
(十八)
関尹子が曰われた。
一つの火があれば、どんな物でも、それを焼くことができる。
しかし物が焼き尽くされてしまえば、火は存することはできない。
一つの「道」があれば、あらゆる執着から解放される。
執着する物がなくなってしまうと「道」も存することはできない。
(十九)
関尹子が曰われた。
人は生まれて、この世に生きている。
生まれて一日で死ぬ人、
生まれて十年で死ぬ人、
生まれて百年で死ぬ人、
生まれて一日で亡くなる人の生涯は夢の如くである。
「道」を得て十年、百年生きた人の生涯は整ったものである。
「道」を得て生に執着することのない人が生きながらえているのは、
生きるべき生き方によっているからである。
生へも死へも、こだわりがないのが「道」を得た生き方である。
生や死へ、こだわりがあるのは死へと向かう(不安な)生き方である。
いまだ「道」を得ていなければ、どのように優れた教義があって、
こだわりを捨てようとしても、それがまたこだわりとなる。
こだわりそのものを捨てるのが「道」なのである。
(二十)
関尹子が曰われた。
私の説く「道」は教えの面でも、修行の面でも「これである」とすることはできない。
そうであるから決まった教義や修行をして「道」を求めようとするならば、
全く「道」とは別なものとなってしまうことであろう。
無闇に「道」にこだわって、
「道」があらゆることにこだわらないことにある根本を知ることがない。
川の流れを正しく知ろうとするのであれば、その源流を知らなければなるまい。
根源を知ろうとすることなく、末節にこだわる。
そうなると永遠に源流(道)を知ることはできないのである。