道徳武芸研究 気と武術〜時津賢児の西野皓三評〜

 道徳武芸研究 気と武術〜時津賢児の西野皓三評〜

時津賢児はフランス在住の武道家で自成道を教えている。西野皓三は1990年頃に流行した西野流呼吸法の提唱者でテレビの草創期に芸能界で活躍した人物で、当時は「飛ぶ鳥を落とす」とまで言われたようである。西野流は「気で人を飛ばす」として多くの人の注目を集めたが、当時から賛否はあった。こうした現象は今も合気道など武術界において見ることができる。時津の『武的発想論』にはそのあたりのことがよく整理されている。西野流の「気で人を飛ばす」については、

「気の力で飛ばされるということは一度もなかったし、そんなことは私にはありえないと思っている」

としている、その一方で、

「拳の浸透力はそれまで出会ったどんな空手家よりもあり、突きもずっと重かった。推手でも負けてしまった」

と述べて「自分のバランスがなぜ崩されるのかどうしてもわからず」との感想を持ったと述懐している。確かに西野の身体的な能力が高いレベルにあったことは事実であると思われる。これはわたしも数回、西野に会ったことがあり実感していたことと一致する。対気などをやったことはないが稽古の様子を見たり話したりした感じでは、かなりの気の力のあることが実感された。時津は西野の身体能力の高さを認めながらも、

「西野氏の動作、特に突きや蹴りはぎこちなく、はっきり言って確かに下手であった」

としているが、これは「気」を使うとする中国武術を実に的確に評していると言えるし、同様のことは澤井健一にも言われていた。確かに物理的に効果的な動き(突き方、蹴り方)というものはあり、それをひたすら身につけようとするのが空手や少林拳、ボクシングなどいわゆる一般的な武術なのであるが「気」をベースとする武術でがそうした形にとらわれない方がより的確に力を使うことができると考える。言うならば通常の武術がおおよそ正しい動きを身に着けようとするのに対して、気の武術は正確無比な動きを行おうとしているわけである。そうであるからそれが得られないと攻防においては一般の武術の練習をして来た人に比して大きく劣ることになってしまう。こうしたことを太極拳では「十年門を出ず」としている。現在、早急に攻防の力を得なければならない事情もないので、ある意味では十年使えなくても正確無比な動きを身につけた方が良いと言えるのかもしれない。

『武的発想論』の優れている点は「気で人を飛ばす」という現象を言語化し得ている点にある。そのメカニズムは以下につきていると言うことができよう。

「西野氏の弟子達は西野氏の気に同調する訓練をしているから、西野氏の気に対して心を常に開いた状態になっているから極めて敏感に反応する。しかも対気という押し合う練習で後ろに飛ぶという反応回路ができているから、みんな後ろに景気よく飛んでいくという現象が生まれる」

つまり「同調する訓練」と「一定の形」を練習していくと自然に「あるべき形の反応」が生まれてしまうということである。これは合気道などで「気で人を飛ばす」現象が起きやすいことの明かな説明でもある。形稽古で合わせる練習をしていて、触れないで飛ばされることが結果としてあれば、そういう「回路」が出来てしまうということである。そして次の一言も実に鋭い指摘である。

「私は西野氏の気では飛ばない人間だから、同氏のもとを離れることになったのだといえる」

「気で人を飛ばす」という最終結果を受け入れて、そうした反応回路を作ることに努めることに価値を見出すことができなければ稽古自体が無意味なものとなってしまうということである。これも実際に西野流を見ていて感じたことと同じことが述べられていて深く同意し得た箇所である。「気で人を飛ばす」ということが悪いことではないが、それがどのような事象であるのかを正しく把握しておくべきではあろう。「気で人を飛ばす」のが一般的な攻防に使えると思うのはまちがいである。

同書は他にも意拳や太気拳などにも触れて、さらに「気の武術」についての深い考察がなされる。一読の価値はあろう。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 如何に「合気」を練るべきか〜システム論の立場から〜

道徳武芸研究 「簡易」と「簡化」の太極拳〜簡化太極拳の場合〜

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(2)