姚姫伝『老子章義』(第十一章から第十五章)「成己」ということ
姚姫伝『老子章義』(第十一章から第十五章)「成己」ということ
ここでは注の「微妙」であるとは「成己」であるということである。「玄道」は「成物」である。冬に川を渡る如くとは「微妙」であることを例えている。混じり濁っているのは「玄通」の状態である」について触れておきたいと思う。
「成己」は「練己」と同じで「道」や「虚」を感得し得た状態をいう。これを完全に自分のものにすることが出来れば仙道の修行は終わるわけであるが、その入門段階でもある程度は「道」や「虚」のあることを認識していなければならない。そうでなければ仙道の修行に入る気にもならないであろう。「この世の中は一定の道理によって動いている」と思うのが「道」の感得である。また「実の社会(物質的世界)とは別に虚の社会(精神的世界)がある」と思うのが「虚」の認知である。この世の出来事は偶然であり、物質だけで動いている、という人には仙道の修行は必要のないものとなろう。ただ実学といわれるものだけをしていれは充分である。また「道=道理」を認めないのであれば、呪術や占いをしたりして世の中を動かそうと務めるのかもしれない。「成己」はこの世の微細、微妙なところをよく観察して得られる境地であるとされている。老子は「捉えようとして捉えることができないのを『微(かすか)』という」と述べている。そうしたものを感得できた時に「成己」が得られるわけである。
次いで姚姫伝は「成物」のあることを述べている。「成物」は仙道の古典に見ることのできない語であるが「道」と一体である「物」という意味であろう。こうした語が古典にないのは本来「物」は「道」と一体となって存しているからである。人だけが恣意的な考えを持つのであり、それ以外では動物でも自然と一体となって生きていると考える。「玄道」は「道」と同じであり「玄なる道」ということで「道」に「奥深い(玄)」という修飾が付いているのに過ぎない。
冬に川を渡ろうとするのは道理がない。一見すると、ここには「道」がないように思えるが、道理を犯すということの前提には道理があるわけで、こうしたところからも「道」の存在を考え得るわけである。また混じり合っている水も、そうなる「道=道理」があるからで、これが清らかになるのもまた「道」によらなければならない。汚れた水を混ぜ続けていれば、水は清濁に分かれることはないのである。
「成己」あるいは「練己」とは「道=道理」のあることの発見であり、合理的な思考の始まりでもあるわけである。
姚姫伝『老子章義』(【 】の部分が姚姫伝の注)
三十本の車輪の矢が一つの軸にまとめられなければ車輪の用をなすことはない。粘土をこねて器を作らなければ粘土は器としての働きをすることはない。戸で囲って部屋とする。そうしなければ戸で部屋を作ることはできない。こうして使えないものを使えるようにする。無をして用となすのである。
いろいろな色があると、それぞれの色をよく見ることができなくなる。いろいろな音があると、それぞれの音をよく聞くことができなくなる。いろいろな味があると、ひとつひとつの味が分からなくなる。馬に乗り猟を楽しむことは、楽しすぎて止められなくなる。手に入れにくい宝物は、それが欲しくてたまらなくなる。そうであるから聖人は「腹」で行動して「目」で動くことはない。つまり「捨てるべきを捨てて、得るべきを得る」のである。
過度に愛情を得たり、過度に辱められたりすると、心は安らかで居られない。大病を得てもありがたいと思い得るのは生きていることを実感できるからである。「過度に愛情を得たり、過度に辱められたりすると、心は安らかで居られない」とはどういうことか。過度な愛情を得るには自分が下で居なければならないし、それを得たとしても何時それが失われるか分からないので不安である。また、それを失ってしまうかもしれないという不安もある。こうしたことを「過度に愛情を得たり、過度に辱められたりすると、心は安らかで居られない」と言っている。「大病を得てもありがたいと思い得るのは自分が生きていることを実感できるからである」とは、どういうことか。自分が大病を得るのは、自分が生きているからである。もし死んでいれば、そもそも大病に罹ることをもない。つまり自分が生きていることをありがたいと思うことは天下の人々が共感することでもあろう。自分が生きていることを愛するように天下の人々の生きることを愛せる人には天下を託しても良いであろう。
【過度に愛情を得ても、過度に辱められても等しく心が落ち着かないものである。過度に愛情を得ることがない状態と過度に辱められた状態は正反対の状況にある。一般に心が落ち着かないのは過度に辱められた場合であると思われるであろうが、過度に愛情を得ても、それを失うことを考えると同じく不安になるものである。
また大病をありがたいと思うこともある。しかし一般的には大病を得るのはありがたいことではない。大病は我が身において生じる。つまり愛情や辱めは相手から受けるものであるから、どうあっても喜ばしいものとはならないのであり、ただ心が安定しないだけとなる。また、そうしたものが失われてもどうということもない。外的な事柄で本質的な影響を及ぼさないことを愛情を得たり、辱めを得るということで述べている。
「大病」を得て貴いと思うのは生きているからである。こうした本質的な楽しみは自分が危機的状態に陥った時に初めて分かるものである。また死んでしまえば「大病」への憂いを持つこともない。自分が生きていることを楽しむことができるのは崇高な楽しみを知る人であり、そうした人は天下のあらゆる人が生きていることを楽しむことを知っている。そうであるから、ただ自分だけを大切と思うこともないであろう。ただ自分が生きることだけを考える人は他人のことを考えることはない。天下を任せることのできる人は天下の人々のことを思うことのできる人である。大切に思うというのは、すべからく我が身を慎み大切にすることから始まるものである】
視ようとして見ることのできないことを「夷(おだやか)」という。聴こうとして聞くことのできないことを「希(まれ)」という。捉えようとして捉えることができないのを「微(かすか)」という。これら三つは個々のものではない。ために合わせると一つになる。上が明るくなければ、下は暗くはならない(上が暗ければ、下は明るいといえる)。つまり「明るい」「暗い」は共に関係しているのであり個々に分けることはできない。(比べる)物の無いところに帰するのを「無の状態である状態」という。(比べる)物の無いことを象徴的には「恍惚(よくみえない)」と言う。その始めを見ようとしても見ることができなければ、その後ろを見ようとしても見ることはできないわけである。古の道をして、今を御するのは、古を知ることから始まる。これを「道紀(みちのかなめ)」という。大昔にでも善を行う人が居たならば微妙な奥深いところまで知ることができよう。深く知ることができないのは知ることのできる状況にないからである。こうしたところで強いて知ろうとするのは、冬に川を渡ろうとするようなものである。あるいは近所の目を恐れて(理不尽にも)客を迎え入れないようなものである。融けるべき氷は融解する。生命力に満ちている木は茂っている。広くて何も無い空間があるのは谷である。塵が混じっているのは濁った水である。
【「微妙」であるとは「成己」であるということである。「玄道」は「成物」である。冬に川を渡る如くとは「微妙」であることを例えている。混じり濁っているのは「玄通」の状態である】
どうすれば濁った水を清らかにできるであろうか。水は静かにしていると徐々に清らかになって行く。こうした「道(=道理)」を実践することができれば(壊れた器に強いて)水を満たそうと思うこともないであろう。あえて満たす必要がなければ器が壊れても新たに作ることはないであろう。
【「濁」とはいろいろなものが混じって一つになっている状態である。そうであるから濁っている状態は静かではない。清い水では清濁が分かれている。つまり「道」は安静であるだけではないのであり、久しく心が紛々としていれば、そうした動きの中にも「道」は存している。つまり「道」はそれ自身が安らかである必要はないのである。また「道」が安らかであると限らないということは、「道」が「善」であることにこだわらないということでもある。自分を「善」で満たそうとして満たされる己の「善」は本当の「然」ではないことを知らなければならない。「沖(うつろ、虚)」は個々の物と等しくして存在している。これは天地と同じで、天地も個々の物と関係を持って存している。つまり、あらゆる物は「沖」になる、つまり壊れるのであるが、それは人が意図して補おうとすることとは全く関係していない自然の中で崩壊と生成は起こることなのである】