姚姫伝『老子章義』(第一章から第四章)
姚姫伝『老子章義』(第一章から第四章)
ここで見るのは『老子』の第一章から第四章までの注であるが、『老子章義』ではそうした章立てはしていないので以下に第何章とは明示していない。
最初に述べられているのは「道とは何か」であり「道」が人において表れたのが「誠」であるとする。そして、それが実践されると「孝」「悌」「信」「慈」「忠」「信」として表れるともある。こうした実際の表れが「名」であり、そうした「名」の根源となるのが「道」である。つまりこの場合の「道」は意味を限定しないために使われているのであり、「名」は意味を限定するために用いているということである。
老子は原理を「道」、実際を「徳」としたが儒教では根源に「善」なるものがあるとするので姚姫伝は「道=誠」としている。ただこれでは「道」を限定してしまうので、本来の道家の思想からすれば宜しく無い解釈といえる。孔子が人の心の根源を「善」としてしまったために後の儒家たちはひじょうに困ることになった。とても人の心の根源が「善」であると言い切れないからである。ただ日本の儒家たちは儒教はあくまで社会倫理の範囲での思想と捉えていたので簡単に「太虚」であるとすることが多かったようである。中国であったような面倒な善悪の判断を避けたわけである。一方の中国では宋学以降は静坐が重視されて内面への探求が深くなされた。そこで「性善」説が問題となったわけである。こうした中で安易に心の根源である「性」を「虚」であるとすると「道家の徒だ」と言われるし「無である」と言うと「禅宗か」と揶揄される。そうかと言って「善である」とも言い切れない。
姚姫伝の生きた清の時代(近世)は、こうした論争を経て来ているのであるが姚が「道」をすなわち「誠」と何の説明もなく規定するのは『中庸』にそうあるからである。『中庸』では「誠は天の道なり」とある。しかし、これに続いて「これを誠にするのは人の道である」としている。つまり「誠」は既存のものではなく、人が「誠」を実践することで初めて普遍的なものたり得るということである。こうした意味でも姫の解釈は内省を欠いた皮相なものであるように思われる。ただ、この注釈のおもしろいところは、老子のアンチ体制的な危険な思想をなんとか常識的な社会道徳のレベルで解釈しようとしているところで、これは現在に至るまで中国の知識人の間では一般的に見られる受け取り方でもある。普通の近現代人が、どのように『老子』を読んだのかは、これを見ればよく分かるわけである。
姚姫伝『老子章義』(【 】の部分が姚姫伝の注)
本当の道とは一般に言われている「道」とは異なるものである。本当の名とは一般に言われている「名」とは異なるものである。天地の始めに名は無かった。名は万物の母である(名が付けられることで人は存在を認識できる)。常に(無為自然で)「無欲」であれば道の妙を知ることができ、(有為で)「有欲」であれば、その徼(きょう 働き)を知ることができる。ただ、これら「無欲」「有欲」は出て来るもとは同じであって、名が違っているに過ぎない。出て来るもとは「玄」と謂われている。深い深い「玄」は「あらゆるものの出てくるところ(衆妙の門)」なのである。
【道とは「道の誠」のことである。それは聖人が教えた国を整えるための経典であったり、礼法や(人の心を和らげる)音楽に見ることができる。こうした天下を治めるための教えの全てを道とすることができるのであり、道は単に道であるということではないのである。
つまり従来、言われて来た道と、ここで言っている道は違っているということである。老子のいう道とは「誠」であり、人においてそれは誠として表れるものなのである。それはまた「孝」ともいえるし、あるいは「悌」また「慈」「忠」「信」とすることもできる。これらは道が実際に行われた場合のことである。
このように単に道というだけでは、その意を尽くせないので「一般に言われている『道』とは異なるものである」としているわけである。「異なる」というのは、その場その場で道の表れ方が違っているからである。決まり切った道というものがあるのではなく、その時々の道の表れがあるわけである。
「無道」「無名」は「天下の始め」である。「有道」「有名」は「万物の母」である。道を行う聖人は、いろいろなものを生み出しているので「天地の始め」の「無」に居ることにはならない。それでは聖人は天地と一体ではないのであろうか。聖人は「有」の中に「無」を見ている。これが「衆妙」である。(聖人はあらゆる「存在=有」の根源に「無」のあることを知っていて、生成の働きと一体となっている。そうであるから)聖人は「万物の母」と一体なのである。つまり聖人は意図的に何もすることがなくて、常にいろいろなものを生み出している。(そうした無為にあるので聖人は)日々生み出しても尽きることがないのである。
心が「万物の極み」に達するとは(生成の働きである)「徼」を見ることでもある。これら(生成の根源と働き)は二つのことではない。ただ、これが現実化すると「有」と「無」の二つの名が生まれることになる。聖人はもとより道を元にしているが、その行為においては「有」や「無」が表れることになる。「有」「無」の「名」を用いれば違いがあることになるが、「名」を用いなければ、それらは一つのものとなる。
こうした「名」の無い根源が「玄」とされる。「玄」そのものは奥深くで知ることはできない。深淵であり思慮を超えている。それは限りがなく、物の生まれる根源は分からないが、現実に物は盛んに生成されている。これを「妙」という。「妙」は「一」である。「一」つの原理であり、「一」の原理によって動いている。こうしたところに依拠するところに聖人の全てがある。つまり(「有」中に「無」の働きのある)「衆妙」が存している。「衆妙」は「玄の至」から出ている。】
天下の人が「美」と認めることを「美」とはしない。皆が「善」とすることを「不善」とする。そうして対立関係を作られると有無が生まれ、難易も生まれることになる。長短が出来て、高下が生ずることになる。声と音(といった違うもの)がハーモニーを持ったり、前後が協働したりもする。こうした対立するものが協働できるのは聖人が無為であるからである。(あらゆるものを区別することない)不言の教えを垂れる聖人において、万物は生成して止むことがない。
【聖人は「好きなこと」「嫌いなこと」のような区別を立てないので、あらゆることを楽しんだり、嫌がったりして行うことがない、ということである。これは美徳であろう。】
為そうとしなくても生まれる。他に依存することなくして功績を上げる。そして、それにこだわることはない。まったく気にかけることもないのである。功績を肯定することも否定することもないわけである。自分の智慧を頼むことがなければ人々は自分の方が正しいと思って争うことはないであろう。珍しいものに価値があると思うことがなければ民は無理をしてもそれを得ようとすることもあるまい。心(古本には「民心」とある。傅奕が校訂した)は欲を持つこともあるまい。世が乱れないのは聖人が治めているからである。聖人はその心を虚にして、その腹を実としている。その志を弱くして、その骨を強くしている。
【その腹を実とするとは外に望むところがないということである。その骨を強くするとは苦楽を選んで行動することがないということである。】
常に民をして余計なことを知ることがないようにする。欲を持たないようにさせる。このために統治者は「あえて行わない」ということを知らなければならない。それは「無為を為す」ということであり、そうであるから聖人は世の中をよく治めることができるのである。
道は「沖(整っている)」であるので、そうであれば淵を越えてあふれることもない。それは「万物の宗」のようであり、鋭を挫き、紛れているのを解き、光を塵と等しくする。「万物の宗」はあるようであるがないようでもある。(「万物の宗」が何であるのかは)私は「誰の子」であるのかは知らない(ように分からない)。それは「帝王が出てくる前」のような(無為自然な)状況と似ていよう。
【道の「沖(ツォン)」は「宗(ツォン)」と発音が同じであり、これは「道の宗(=根本)」であり「至沖(=完全なる調和)」でもある。これを用いれば、どのような淵も(過剰となって)あふれることはない。こうした奥深いものを「万物の宗」としている。「鋭さを挫き」というのは(鋭鈍の中和を得ることであり、それは)淵を乗り越えてあふれることはなくや光と塵を等しくすることと同じである。こうした(万物を調和させる)「万物の宗」なるものの影響を人も受けている。そうであるから人は「体(=根本)」と「用(=行動)」が一体となっているはずである。つまり人は皆「道」の本源に帰しているのであり、これは「帝王が出てくる前」の無為自然な状態と同じにあるということでもある】