丹道逍遥 文始真経(三極扁 七〜十)得薬と還虚合道

 丹道逍遥 文始真経(三極扁 七〜十)得薬と還虚合道

仙道では「得薬」という段階があるが、これを小薬と大薬に分ける派もある。分けないのは最終的には大薬を得るのが本来であるからで、ただ得薬のみとする。また文始派では「得薬」ということ自体も余計なこととして最終段階であり最初でもある「還虚合道」だけで良いとする。およそ仙道において心身の変容をしようとするなら現実世界(実)の他に世界のあるとする「虚」の考え方やこの世は一定の法則の下にあるとする「道」を認めないでは入ることができないからである。ただ「虚」や「道」を確かなものとして実感できるまでには時間がかかる。ちなみに北派や南派では「還虚合道」の前に「煉精化気」「煉気化神」「煉神還虚」があるとする。ただ、これらは実際は四段階ではなく「煉神還虚」は即ち「還虚合道」であり、修行の階梯としては三段階となる。


こうしたプロセスの中で小薬は「煉精化気」を経て得られる。大薬は「煉気化神」を経て得られる。つまり小薬は「精」である肉体のエネルギーと「気」である感情のエネルギーが統合されることをいうもので、いうならば「心身統一」の状態である。肉体と感情のエネルギーが統合された状態を神道では荒魂(あらみたま)と称する。戦いなどの非常時にはこうした統合を起こそうとする。神功皇后が半島に攻め込む時には荒魂を喚起させたとされているのもそのためである。荒魂の表れとしては「歓喜」と「憤怒」がある。宗教的には神との合一によって法悦が得られたとする人が多く居る。これは「歓喜」として心身の統合されたエネルギーが発揮された形である。また密教などには不動明王を始めとする「憤怒」像が多くある。これも心身が統合されたエネルギーの発露する形であり、これと同じ形はインカ文明などでも見られ歯を食いしばったような図像がある。


これに次いで「煉気化神」があり「気」である感情のエネルギーと「神」である意識のエネルギーとが統合される。これは感情を意識(理性)でコントロールするものであり、合理的な思考(道=道理=理)によってそれは可能となる。さらには「神」である意識の働きそのものにもとらわれない「虚」の状態に入

る。文始派は始めからこの境地にあることを良しとする。


先に「心身統一」は荒魂の働きを発動させることで可能となる、と述べたが、これは具体的には「内的な火」の発動のことである。仙道ではこれを「陽気」と称する。この「内的な火」はヨーガや密教あるいはシャーマニズムでも重視されていることを宗教学者のエリアーデは指摘している。こうした「火」を起こすことが俗的な世界を超越して神霊の世界に入ることのできるエネルギーとなるというわけである。これはヨーガにおけるクンダリニーの覚醒を見れば明らかであろう。シャーマニズムや古代インドのバラモン教では儀式によって「内的な火」を起こしていた。バラモン教では護摩を焚いていたのであるが、これを内面化したのがヨーガで、日本の密教でも「外護摩」と「内護摩」という考え方がある。これは儀式の護摩を「外護摩」、内的な護摩を「内護摩」と称するもので、ヨーガによって生起される「内的な火」は「内護摩」によって起こされることになる。神智学でアグニ・ヨーガと言っているのも、ヨーガの核心が「内的な火」にあるからである(アグニは火の神)。つまりヨーガの本質は「内的火=クンダリニー・シャクティ」の覚醒と制御にあるのである。ちなみに「クンダリニー・シャクティ」とあるように「内的な火」は「性(シャクティ)」的な力と関係している。つまり生命の根源的な力が解放されて発せられているのが「内的な火」であるということである。文始派では「内的な火」を得るにはただ余計なことをしないでいれば良いと教えている。


(七)

関尹子が言われた。

道は広々としていて、その限りを知ることはできない。

心も自由で縛るものはない。

物はその姿を常に変えている。

その変化の早いことは雷の如くである。

そうしたものを見て聖人は心は「一」であり、物も「一」、道も「一」であることを知る。

心と物と道は「一」なのである。

「一」ではあるが全てが同じということではない。

いろいろな形があることと、全てが「一」であることは矛盾しない。


(八)

関尹子が言われた。

盆を沼と見立てる。

石を島と見立てる。

そこに魚が泳ぎ巡る。

それが「盆景」である。

しかし魚はそのことを知らないかの如くである。

小さな「盆景」であるが広大な世界がそこにはある。

どうしてか。

水源がなく流れている水は、その源を見出すことはできない。

聖人の道には始まりも終わりもない。

終わりがなければ窮まることもないのである。


(九)

関尹子が言われた。

(執着がなく)憂いのない「道」をどうにかして捉えようとするのは「水」を捉えようとするのと同じで(徒労となり憂いを得るだけで)ある。

見ることのできない「道」を見ようとするのは燃えて自在に形を変える「火」の形を見ようとするのと同じである。

進むことのできない「道」を歩もうとするのは成長の速度が決まっている「木」を無理に早く大きくさせようとするのと同じである。

言葉で表現できない「道」を表現しようとするのは岩の中の「金(=鉱物)」を割ることなく見つけようとするのと同じである。

考えても捉えることのできない「道」を知ろうとするのは(多くの働きを持つ)「土」が何であるのかを知ろうとするのと同じである。

一方で聖人はそうしたことをすることはないので、大いなる道を得ている。

その心は道を感じることがなくても、それは道と一体であるように見える。


(十)

関尹子が言われた。

空を雲が覆うと河や湖は陰ってしまう。

しかし、泳ぐ魚には何の障りもない。

波の中を遊び、食べ物を捜して、幸いにそれを得れば食べている。

こうした(自然のままで欲望を持たない)魚を釣ることはできない。

私も道を知りはしない。

無我で道を求める者と同じである。


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