道徳武芸研究 合気と親和力と「手乞」について
道徳武芸研究 合気と親和力と「手乞」について
合気は武田惣角が伝えた大東流で中核となる技法であり、親和力は井上鑑昭が提唱していたものであるが、合気については大本教の出口王仁三郎との関係も言われている。一部には王仁三郎により「合気」が名付けられたとされるが、それは適当ではあるまい。大本教の本部があった綾部に居たころ植芝盛平は「合気柔術秘伝奥儀之事」という目録を得ている。こうしたこともあって「合気」に王仁三郎が何かを感じて盛平に何らかの重視する教えを示したことは事実と思われる。それは合気と同じ概念である「親和力」を大本教の信者であった井上鑑昭に授けて井上は親和体道を創始していることでも分かる。この時、王仁三郎が感じていたのは太古の「手乞(てごい)」の幻影ではなかったかと思われるのである。
現在、大東流ではその起源を「手乞」にあるとしている。「手乞」という語は『古事記』の出雲神話で出てくる語であるとされるが、実際はそうではない。この部分は「(タケミナカタの神の)手を取らむと乞い」と読まれていて原文では「手乞」という名称を読み取ることはできないのである。またこのすぐ前にも「力競べせむ(略)我先にその御手を取らむ」とあり「手を取る」という言い方が見られ「手」は「取る」とつながっている。つまり「力競べ=相撲」という意味で「手乞」という語があったとするのは間違いなのである。
この神話ではタケミカヅチの神(大和系)とタケミナカタの神(出雲系)が出雲の国譲りを巡って争う様子が記されているのであるが、初めにタケミカヅチの神がタケミナカタの神に手を取らせる。そうするとその手は「氷」のようでもあり「剣刃」のように感じられたのでタケミナカタの神は恐れて畏まった(原文は「惧(おそ)りて退(の)き居りき」)。次いでタケミカヅチの神の手をタケミカヅチの神が取るのであるが、その途端に簡単に投げられてしまう。結果としてタケミナカタの神は「どうぞ私を殺さないで下さい(原文は「我をな殺したまひそ」)」と言って逃げてしまうことになっている。
つまり手を取らせた場合には相手を畏怖させるだけであるが、手を取った時には投げ飛ばして、相手は死の恐怖を感じるまでになる、ということである。これは合気の観点からすれば相手を投げることなく屈服させるにはこちらから攻撃するのではなく、相手に手を取らせることで、相手と合気をして、その闘争心を無くさせることができるという教えをここで読み取ることができるわけである。
さらに深いところを知るために煩雑ではあるが原文を見ておこう。それは「欲取建御名方神之手、乞帰而取」で「乞帰而取」とあるのは先に「タケミナカタの神の手を取らむとと」あるので「願って取らせてもらった(乞而取)」あるいは「(今度はタケミカヅチの神の方からタケミナカタの神の手を)反対に取った(帰而取)」とすれば良さそうなものであるが、あえて「乞帰而取」としている。これは「乞ふを帰(かえ)して取る」と読むことができるのであり「乞(こふ)」ではないその反対の状態で取った、ということになる。「乞」は「恋(こふ)」であり、相手との交わりを言うものである。つまり合気の状態であるということで、そうであれば相手を投げたり死の恐怖を感じさせることはなく、心服させることができるわけである。
「乞」はタケミカヅチの神の前半の攻防をいうもので、後半は「乞」ではない状態の攻防が示されている。本来は別の神がそれぞれに当てられていたものと思われるが、大和朝廷がこの神話を記す時に、全てがタケミカヅチの神のこととして展開したため不自然なものとなっている。この国譲りの流れからすれば「乞」を使ったのはタケミナカタの神であり、強引な投げ技を用いたのはタケミカヅチの神であったかと思われる。そしてこの「乞」は出雲が大和に征服されると共に封印されることになるのである。
大東流の合気は一種の「なじみ」感であり、掴んで来る相手の手と自分の腕との間に「密着」感、「なじみ」感を得て関節技をより正確に掛けることができるようにしようとするものである。合気上げも、基本的には相手の手首の関節を極めるものであるから合気を知らなくても掛けることはできる。しかし合気を会得していればより正確に効果的に合気上げをすることが可能となる。大東流の合気はこうした「なじみ」感であるから離れていては使うことができない。また、それは関節技につなげなければ武術の技として展開することもできない。かつて佐川幸義が「合気だけでは技にはならない」と教えていたのもそうした理由による。こうしたところからすれば大東流の起源に「乞」をあてることは妥当ではある。しかし「手乞」というものは無かったことも知っておくべきではあろう。
親和力は1946年に出口王仁三郎によって命名されたとされる。現在は親英体道と称されているが、これは1975年からである。親和力といえばゲーテの著書が一般には知られていたであろう。『親和力』が翻訳されたのが1918年であるか王仁三郎は日本でのゲーテ人気を知って、おそらくはその著書名から親和力を取ったのではないかと思われる。ゲーテの『親和力』で用いられている「親和力」とは恋愛の力といったもので、それは社会的な規範を超越しても働いてしまうものとして作品では用いられている。こうしたことからすれば植芝盛平が「合気道は『愛』の武道」と言っていたのも、王仁三郎の示した「親和力」の考えが背景としてあったものと考えられるわけである。特に盛平は王仁三郎に私淑すること甚だしかったとされるので「愛の武道」の背景に「親和力」の考えがあったと推測することは決して妥当性を欠くものでもあるまい。また親和体道は後に親英体道となるわけであるが、この時にも王仁三郎の示唆があったとされる。「英」は「エイッ」という気合(言霊)によるとされる。晩年の盛平が気合をよく用いていたのも、こうした王仁三郎の示唆を知っていたからと考えられるのである。気合を使う方法は岩間でよく修行をしていた斎藤守弘が伝えていた。東京の合気会の本部では戦中の頃の盛平の演武を最も理想的としていたので気合を用いることはないが、岩間で修行した外国人が本部にも練習に来るようになると気合を発するようなやり方は「岩間スタイル」として揶揄されることもあったようである。また親和力は人と人との間に恋愛を生む以外に物質にも働いて化学変化を起こすとされている。つまり親和力は普遍的に働いている力であり、これは盛平のいう「むすび」の働きと同じと考えられ、それを合気道では「引力」として用いるわけである。
王仁三郎は「合気」は「親和力」つまり恋愛力と等しいものと考えていたのではなかろうか。つまり合気という語の中に「こい(乞、恋)」のあることを直感していたのではなかろうか。大本教では大和朝廷の力の拡大と共に隠されてしまった「国祖(艮の金神)」を岩戸開きして復活させることを目途としていた。この「艮の金神」の働きこそが「乞」であり合気であることを王仁三郎は知って、その復活を盛平に託したのではなかろうか。ただ現在のところ合気道は単なる武術になりつつある。「岩戸」は再び閉じつつあるのかもしれない。