道徳武芸研究 弾腿と忠義拳〜張志通と劉雲樵の「隠れた名拳」〜

 道徳武芸研究 弾腿と忠義拳〜張志通と劉雲樵の「隠れた名拳」〜

弾腿は通臂拳で有名な張志通が、忠義拳は八極拳で知られる劉雲樵が伝えた拳である。これらが「隠れた名拳」である、というのは台湾では小中学校で教えられているため武術の専門家には、おおよそその「価値」が顧みられることが少ないためである。つまり秘伝のように「隠されて」はいないのであるが、誰もその「価値」に気づかなくないという点において「隠れた」とすることができるのではないかと、いうわけである。

台湾の小中学校では武術教育が重んじられている。これは中国の伝統文化を学んで正しい心と体の使い方を学ばせようとするものであるが、そうした中に弾腿や忠義拳を採用している学校が少なくない。張はもともと小学校の教員をしており、その時に武術の指導の重要性に気づいて自分が小さい頃に習得していた弾腿を教え始めたようであるが、これが後に台湾で外丹功が大ブームとなると教員を対象にした講習会も開かれて、かなりの学校で教えられるようになって行った。一方、忠義拳は当初は軍隊に向けて考案されたようであり銃剣でも使えるようになっているが、その簡易さと武壇が大学のクラブをベースに広がっていることもあって、後に教職に就いた人が生徒に教えているようなケースもあるようである。


ここで武術的におもしろいのは弾腿でも忠義拳のもとになった八極拳でも、その淵源はイスラム系の武術にあるという点である。実際に張はイスラム教徒で食事にも特別な配慮(ハラール)をしていたという。イスラム系の武術の特徴としては、

1、「単独動作」であること。

2、動きが大きく、力強いこと。

3、素樸な動きであること。

などが挙げられる。ただイスラム系の武術は漢族の間でも練習されるようになり、そうなると連続した套路が編まれるようになる。通臂拳なども本来のイスラム族の間で練習していた頃には、数十から百前後の単独の動作を繰り返して練ってたようであるが、漢族に入ると套路が考案されるようになる。八極拳なども六大開や六肘頭などの単独の動作がもとであるように思われる。弾腿も単独の動作を繰り返している。これは形意拳も同じである。


動作が大きく素樸である武術は、初心者や児童の学習に適していると言うことができるであろう。こうした武術教育は「国術」の名のもとで行われているのであるが、それがマジョリティの漢族の武術ではなくマイノリティのイラム系のそれ(回族)であるというのも面白い。武術は実用のツールなので、優れたものが学ばれる。かつては倭寇の刀法が多く学習されており、その影響で清朝には現在の「中国刀」が広く軍隊を中心に普及することになった。ちなみに剣術は近世の兵法書である『紀行新書』にも見られるように中世、近世あたりで武術としては失われてしまい、道教などの儀式の中で伝承されるのみであった(悪霊との闘いに使われる)。それが近代になって武当剣が着目されるようになって、広く拳術各派で剣の套路が考案されるようになるのである。太極拳でも剣の套路はあるが、例えば楊家と呉家では拳の套路は大体において同じであるのに剣は全く異なっている。これは剣の套路が後に考案された為である。倭寇を通じて学ばれた日本の刀法は直接的には苗刀として伝えられている。苗刀は術理も日本の刀法に近いが、中国刀として新たに組まれた拳術に付随する刀法では拳術の術理がベースとなっている。


台湾における「国術」教育の背景ともいうべきに「国語」教育がある。「国語」は中華民国で制定された北京語をベースとする共通語である。日本統治下にあった台湾では台湾語と日本語が使われており「国語」は普及していなかった。そのため日本の統治が終わってからは「国語」教育が行われるようになる。それと同様に「国術」も教えられるようになるのであるが、これは一方で台湾文化を抑圧する側面もあった。あくまで「国術」は「中国北方の武術」でなければならないようなイメージがあったのである。弾腿も「国術弾腿」として教員向けの講習会が開かれていた。こうした風潮もあって日本でも北方の武術は台湾などの南方のそれに比べて優れているとする誤解が広く見られる。古くから南方地域は経済的に豊かであり、優れた武術も発達して来ている。


張志通は通臂拳は教えるに足る弟子が得られないとして教えていない。弾腿は張の武術を実際に知ることのできる唯一のものである。弾腿(譚腿、潭腿などとも表記することがある)は初級レベルの武術と見られることが多いが、そのレベルは相手を補足する高度な技術を含む非常に高いものがある。台湾で同じくイスラム系の「譚腿」で有名な韓慶堂は擒拿術をよくしたが、それは譚腿の応用でもあった。また忠義拳は八極拳をよく取り入れている。往々にして八極拳は相手に対して始めから横向きに入るものと誤解されているが、忠義拳ではそうした誤解が生じない形になっていて、ある意味で八極拳の実戦形ということもできる(八極拳は一般的な攻防と同じく正面から対して相手の攻撃を封じ、通常は斜めから入身をするところを、自分が横向きになることでその場で入身ができるように工夫されている。この場合には相手を充分に補足していなければならない)。

中国では易にあるように真理は「簡(シンプル)」であり「易(イージー)」なるものであるとされている。そうした意味においては、あるいは簡単であり単純な動きと見なされてしまう弾腿や忠義拳は複雑な通臂拳や八極拳に比してより「真理」に近いものとすることができるのかもしれない。再評価されてしかるべき拳術と思われる。


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