宋常星『太上道徳経講義』第八十章

 宋常星『太上道徳経講義』第八十章

(1)この章をよく見ると、全てが例え話であり実際のことではないように思われる。

(2)老子は周の末の頃の人であるが、その時に列国は分裂しており、人心もまとまることがなかった。混乱の日々が続き、どうすることもできないでいた。

(3)そうした頃に太古の遺風を見習おうとしたのであり、それはただ「無為の至治」ということであった。

(4)こうしたところに今を否定して古代を良しとする考え方がある。

(5)当時の社会を受け入れることのなかった老子は身を隠そうとして、函谷関を越えて中国を出る決意をした。そこで関令(関所の長官)の尹喜に出会い、著書を求められ、ここに『老子』が著されることになった。

(6)そこには、ただただユートピア的な世界の実現が描こうとされている。そして『老子』に思いを託して自らは世俗の塵から逃れてしまった。こうした経緯で老子は中国を去ったのである。

(7)この章では単に効率を求めることが大切なのではなく、無駄であることの価値を重視している。

(8)それは自然の中で、あらゆるものがぞれぞれに価値を持って地位を占めているからである。それぞれが「無為の働き(無事)」を有しているからである。

(8)こうしたことを尊重する太古の遺風は現在、想像することはできるが、それを見ることはできない。


1、国は小さく、民は少ない。いろいろ道具があっても、それを使うことはない。

(1−1)「国は小さく、民はすくない」という状況であれば、互いが係ることなく安穏で居ることも容易であろう。一部に騒ぎが起こったとしても、それで世の中が乱れたりすることもないであろう。

(1−2)いろいろと道具があるというのは、それが十であっても百であっても、多いとすることができる。こうした多くの道具を使うのは自分の欲望を果たしたいからであり、それに便利であるからである。

(1−3)そうして日々、暮らしは必要以上に贅沢になって行く。

(1−4)小さい国で、民の少ないところでの暮らしを守って行こうとするのであれば、そうした道具を便利に使うような生活は必要あるまい。

(1−5)素樸であることで、それぞれの国で、そのままの生活を安穏に続けることができるものである。共に清貧であることができるわけである。

(1−6)こうしたことが「国は小さく、民は少ない。いろいろ道具があっても、それを使うことがない」なのである。


2、民をして生きることより死ぬことにおおいに関心を持たせるようにして、遠くまで歩いて行って良い暮らしをしようと思うこともないようにさせる。舟や車があっても、それに乗ることはないし、軍隊があっても、それを用いることはない。

(2−1)民が「素樸」であり「清貧」であれば、欲望を満たして生きることに執着することもあるまい。およそ人は物を欲するものである。そして労を惜しむことなく山川を越えて遠くまで出かけて自己の欲望を満たそうとするものである。

(2−2)限りなく欲望を満たそうとして倦むこともない。家に落ち着くこともなく、よけいなことばかりをしている。

(2−3)もし民が生への欲望を重視することがなければ、舟があっても海川を越えて欲を満足させようとすることないであろうし、車があっても遠く行くこともあるまい。つまり舟や車を使う必要がないわけである。

(2−4)鎧兜を身にまとい、軍隊を整えて敵に対する。盗賊に出逢えば撃退して、自己の利益を守ろうとする。

(2−5)しかし出会った人を友とし、老人も子供もそれぞれのあるべき立場に居たならば、鎧兜で身を守ることもないし、軍隊を用いることもないのである。

(2−6)そうであるから「軍隊があっても、それを展開することはない」としているのである。


3、民をして太古の縄を結んで記録をする方法を復活させる。食べ物は今のままで満足し、家も今のままで良しとして、日々の生活に満足している。そうなれば互いに隣の国を望むことができ、鶏や犬の鳴き声も聞こえるような距離であっても、民は老いて亡くなるまで、相手の国を訪れることもない。

(3−1)「縄を結んで記録する」というのは太古の文字がまだ無い時のやり方で、文字のかわりに縄を結ぶことで政治などの「文書」も作られて民の統治に用いられていた。

(3−2)こうしたことは「素樸の至」とすることができるであろう。

(3−3)後に文字ができると、民は時代を追うごとに政府の文書を重んじることがなくなって行った。(3−4)つまり文字ができると統治は必要以上に複雑になり円滑に行われなくなって行ったわけで、そうであるから老子はまた民をして「縄を結んで記録する」時代のような「素樸」な状態に戻すべきとしているのである。

(3−5)そうなれば好んで無為が行われ、自然で居ることができる。

(3−6)民は耕作をして食べ物を作り、井戸を掘って水を飲み、余計なことに関心を抱くこともない。(3−7)遠くまで行って珍しい食べ物を求めることもなく普段の食べ物で満足している。着る物は寒い時には着て、暑い時には脱ぐだけで、むやみに華美な衣服を得ようとはせず、普段着ているもので満足している。簡素な家に住んで安らかで居る。豪華な家に住むことは望まず宮殿のような華美を求めることもない。今いるところで満足しているのである。

(3−8)年長者は重んじられ、子供たちは慎んでいて互いに良い関係にある。あらゆることが社会常識の通りに行われて、それを逸脱することもない。

(3−9)住んでいる国がこうした状況であれば、例え他国が見える範囲にあったとしても、近くにあったとしても、あえてそこに行こうとも思わない。

(3−10)鶏が鳴き、犬の吠える声が互いの住んでいるところから聞こえても、あえて人が交わろうとはしないのである。そうであれば互いに争うこともないし、共に清貧で居ることもできる。

(3−11)そうして老いて死んで行く。それぞれが交流することなく、特に楽しみを求めることもない。こうした社会は「無懐の世(太古の氏族の世)」であり、そこで暮らす人々は「葛天の民(太古の帝王の民)」とすることができるであろう。

(3−12)心楽しく余裕を持って生きている。そうなればどうして他国に関心を持つことがあろうか。(3−13)老子がこうしたことを言わなければならなかったのは当時の社会がうまく行っていなかったからである。そして太古の理想の時代のことを思っていたからである。あるいはこれは夢想の世界といえるかもしれないが、老子はあえてそうした社会観を提示しているのである。


〈奥義伝開〉

ここで述べられているのは無政府主義的な社会である。「富国強兵」は封建時代から資本主義時代までを通じての「国家目標」である。しかし、これを行うには民への搾取が前提となる。民への搾取は社会主義から共産主義へと移行するにつれて低減されて、無政府主義になると搾取を行う「権力者=政府」もなくなるわけであり「富国強兵」の必要性も存在し得なくなる。

「富国強兵」」であるには、ここで述べられていることと反対のことをすれば良い。大国で多くの搾取の対象となる民が居て、便利な道具が多くあり生産性の高い社会で、交通機関も発達して人や物の交流が円滑で軍備も整っている。高度に情報化された社会で統治は完璧に為されて、人々は美食、美服を楽しむ生活をしている。こうなれば「富国強兵」が果たされたということができるであろう。

老子が理想とする無政府主義の社会が実在したとされる「縄を結んで記録していた時代」とは日本でいえば縄文時代あたりであろうか。縄文時代は大きな争いのない時代であったとされる。日本で大きな争いが生まれるようになるのは弥生時代である。稲作が行われて生産性が高くなると、富を奪おうとする者が出てくる。しかし縄文時代は生産性が低いし貯蔵の方法も発達していないので、他人の富を奪うより自分で森に入って食べ物を探した方が良いような時代であったわけである。老子はこうした時代の人は「死を重んじる」としている。これは、生きることを楽しもうとする余裕の無い社会ではない、ということである。無政府主義の社会は個々人の欲望を満たす必要のない社会でなければならない。より良く生きようとする人としての欲望のない世界でなければならない。

人々の意識が変わって欲望に執着することがなくなれば共産主義や無政府主義の社会が実現され得る、ということである。二十世紀に共産主義社会の建設が失敗したのも、指導者の欲望はそのままにして民衆の欲望を無理に抑圧したところにある。老子の慧眼は既に二十世紀の共産主義の失敗を見越していたということができる。老子は第五十章で三割が「生の徒」、三割が「死の徒」、そして三割が「生から死へと向かう者」としている。これを主義にあてはめると資本主義者、無政府主義者、共産主義者とすることもできよう。「死の徒」というのは欲望のない人のことである。この章で老子は「生に執着し過ぎる」ためのこうした人達が生まれるとする。残りの一割が欲望を肯定も否定もしないある種の超越した人たちである「聖人」とされる。ただ聖人について具体的なことの詳細は老子も提示し得ていない。


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