道徳武芸研究 「暴力装置」と合気道
道徳武芸研究 「暴力装置」と合気道
「暴力装置」とは暴力を用いる国家やそれを実行する軍隊、警察のことをいう。こうした機関での実行手段として武術が使われている事実がある。特に近代以降は近世に広く練習されていた武術は、その時代の終焉と共に一旦は忘れられてしまう。これは武術に限らず茶道や芸能などでも広く見られたようである。如実にこうした風潮を表す社会現象としては廃仏毀釈がある。これにより多くの仏教文化財が失われた。しかし武術は日清、日露戦争を経て軍事教練の一環として有効であることが認められ「復活」することになる。しかし宝蔵院流槍術など軍隊で役に立たないような武術は顧みられることはなかった。
このように日本における近代武術の「復興」は多分に国家の暴力装置と深いかかわりを持っていた。合気道の一部もそうした関係の中で練習されるようになるのであるが、今日そうした系統の合気道を見るとかなりの変容が認められる。そこでは既に争いから「離脱」する方法としてではなく「制圧」術として展開されるものとなっている。形としては合気道であっても、その動きは全く変質した「攻撃的」なものとなっているのである。暴力装置にあっては相手を「制圧」することを目的として合気道を始めとする武術を使うのであるから、理念としては真逆になる。
相手と「和」することの基本は「柔」らかさである。憲法十七条では「和」を「やわらかき」と読ませている。やわらかに他人と対すれば争いの起こることはない、という教えである。確かに暴力を振るおうとする時には心身が緊張していなければならない。つまり「制圧」術として合気道をやってしまうと「柔」らかさが無くなってしまうわけである。近代日本で暴力装置における柔道が、その実行手段として社会に認知されて行く中で、競技化は大きく寄与するものであった。当初、嘉納治五郎は西洋に準ずるスポーツ化、ゲーム化のひとつの形として競技としての試合を取り入れるのであるが、それはあくまで「精力善用(心身を合理的に用いるための練習)」のためであって勝つことを目的とするものではなかった。
しかし柔道に競技試合を入れたことで柔道は「制圧」術としての側面を強くするようになった。そこで嘉納治は「合気道を真の柔道」として講道館に取り入れることを模索するのである。合気道は相手を「制圧」する試合を拒否して独自の道を歩んでいたからである。また、その背景には同じく近代化に反する大本教があったことも忘れてはなるまい。植芝盛平が大本教に居た時に見出したのが「我即宇宙」であり「万有愛護」であったが、これは大本教の教え(普遍愛)に通ずるものでもある。
太極拳には「愚公山を移す」のエピソードがある。これは若い楊澄甫が、銃火器の発達した時代に太極拳など習っても闘争の手段として使えないのではないか、という疑問を持ち「太極拳をやっても意味がない」と言い出したことによる。父親の健侯は太極拳の価値を否定するような言い方に烈火の如く怒ったとされるが、祖父の露禅は「愚公山を移す、と言うではないか」と諭したとされる。
このエピソードは国術運動の中で、日本の柔道などのように暴力装置の一助として中国武術を使うことができる、そのような新たな価値のあることを教えたものと説明されることもあるが、実際はそうではあるまい。
心身を柔らかにする太極拳は相手を「制圧」するための方途ではなく、戦いから逃れるための手段であることを教えたのであり、そうした太極拳が広まれば争いのない世の中となり、今は価値がある機関銃やピストルなどの火器より太極拳がより価値のあるものであることを教えたものと思われるのである。これは太極拳のベースである「太極」の理論からもそういった考え方になる。つまり太極拳における太極図(双魚図)では陰陽が互いに求め合う、和合し合う形になっているのである。
暴力装置においては個々人が尊重されることはない。それぞれは上の命令に絶対的に服従しなければならないからである。しかし合気道の根本として見出されたのは「我即宇宙」であった。つまり「個人」が「宇宙」と等しい存在であるということである。ここには「個人」に絶対的な尊厳があることが認められる。そして「万有愛護」はあらゆる存在がそれぞれに尊重されなければならないことを言っている。決して何らかの正義があったとしても「暴力」をして軽々に「制圧」して良いというものではないわけである。見た目の「強さ」を求めて真に価値のあるものを忘れたのでは合気道を修練する意味も失われてしまうのではなかろうか。
注 国術運動 近代以降、中国では「文」に比べて極めて低い価値しか認められていない「武」の地位の回復を目指して「文」の「国学(儒教)」に対して「武」は「国術」たり得るとする主張が立てられた。その根本にあるのは「武」が「強種強民」に資するとする考え方であった。それは小国であり、体格も良くない日本人がロシアなど西洋列国に負けることがなかったのは柔道などの教育により日本民族が強くなったからであると考えられていたためである。そうであるから中国でも武術教育を行うことで「強い兵士」を育成できるとしたわけである。こうした各地に国術館が作られて行ったが、この計画は戦争の拡大で充分な成果を上げることなく頓挫してしまった。また「強種強民」には優生思想も影響しているようである。