丹道逍遥 チベット密教「マハー・ムドラー」とは何か

 丹道逍遥 チベット密教「マハー・ムドラー」とは何か

チベット密教には「マハー・ムドラー」というものがあり、それは最も高度な奥義であるとされている。「マハー・ムドラー」は「大印」と訳される。中国では「大空印」とされることもある。しかし、それがどういったものであるかは判然とはしていない。具体的な実践の方法はいろいろな派によって異なるようでもある。また性タントラに関係するとも言われている。しかし「マハー・ムドラー」が悟りに直結するものであるという点においては共通しているようである。


仏教で「印」を用いるようになったのは密教からで、それはバラモン教の方法を真似たものである。釈迦はバラモン教とは反対の立場として仏教を提唱したのであるが、ただ瞑想をするだけではどうしても「悟り」に到達しないことが分かって、広く信じられていた呪術的な方法である「印」を用いて尊格と一体となる呪法が取り入れられることになったわけである。大日如来は悟っている。そうであるなら大日如来と一体となれば悟りを得た状況に入ることができるのではないか、と考えたわけである。こうしたバラモン教の呪法は基本的にはシャーマニズムと同じで、尊格と一体となることでそれが持っている「力」を発揮できるようになるという迷信によるものである。釈迦はそうしていくら欲望を叶えても人は満足することはない、ことに気づき、欲望そのものを滅することが重要であると悟ったのである。

これが仏教の根本である四聖諦(苦、集、滅、道)であるが、釈迦は苦しみを滅する方法(道)があるとも教えた。それが三戒(戒、定、慧)である。戒律を守って瞑想(定)をしていれば空への理解(慧)が得られて欲望の苦しみから脱することができると教えたのであった。しかし、いくら瞑想をしても完全に苦しみから脱することはできない。そこで悟っている如来と一体となれば悟りの境地に入ることができるのではないかと考える人が出てきたわけである。しかし、それでも苦しみから脱することはできない。そうであるなら「空」そのものと一体化すれば良いのではないか、と考えたのが「マハー・ムドラー」の発想の根源であると思われる。


一方で性ヨーガも破戒というストレスを抱えることで一気に「空」を悟ることができるのではないかと考えたのである。白い色だけのところで白を認識するのは難しいが、そこに黒を一点落としてみる。そうすれば白が明らかに認識できる。「破戒」という「悟り」とは真逆なことをして「悟り」の境地を知ろうとしたわけである。この場合、破戒のストレスを掛けるには酒を飲んだり、肉を食べたりすることも破戒であるので、それでも良いようなものであるが、この程度ではストレスとしては軽いと考えられたのであろう。そうかといって殺人は大きなストレスにはなり得るが、殺人をして悟りを得ようとする人々は社会的に許容されない。せっかく悟りを得ても、社会的に抹殺されたのでは意味がない。社会的には許容されて、破戒行為として最大であるものとして性的な交わりが考えられたものと思われる。つまり仏教における性タントラはそれを行うことで「地獄に落ちてしまう!」等の大きな精神的なストレスが生じなければ修行として成り立たないわけである。「マハー・ムドラー」が性タントラと見なされるのは、このように一気に悟りを得ることができる方法として等しいからである。しかし性タントラも結局は失敗に終わってしまう。


私見によれば「マハー・ムドラー」は禅宗の影響を受けて発想されたのではないかと考える。それは禅宗では法界定印を組んで結跏趺坐で坐ること自体が「悟りの状態」にあると考えるからである。これは釈迦が悟りを開いた時の姿勢である。そうであるから、それを真似ることで同じ悟りの体験が得られるとするわけである。そのため禅宗では悟りを求めて坐禅をするのではないとしているし、坐禅は単なる瞑想でもないという。それは釈迦が悟った時の姿そのものであるからである。こうして見ると法界定印を組んで結跏趺坐をしている姿そのものが「印」であることが分かる。そして、それは「空」の悟りの状態そのものであるのであるから、悟ってもいるわけである。そうしてみるとこれを「マハー・ムドラー」であるとすることができることになる。

つまり禅宗における「結跏趺坐 法界定印」の位置付けは、チベット密教では「マハー・ムドラー」として認められるべきものであったのであるが、それがチベット密教では逆転して究極的な「印」として「マハー・ムドラー」が位置付けられ、その具体的な方法については「チベット密教で考案された最高度の方法」が当てはめられて行ったのである。そのために各派で「マハー・ムドラー」の方法については異同が生じている。また「マハー・ムドラー」はいろいろな尊格と合一しようとするバラモン教の方法から抜け出して本来の仏教のあり方に立ち返ろうとする志向の中から生まれたものとも思われる。「空」の悟りそのものと一体であるとする禅宗の考え方はまさにそうである。しかし禅宗であれチベット密教であれ、結局は「マハー・ムドラー」も悟りへ至ることのできる方法たり得なかった。

いろいろと神秘めいて語られる「マハー・ムドラー」であるが、その根本にあったのは密教におけるバラモン教から仏教への回帰なのであった。


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