宋常星『太上道徳経講義』第七十九章

 宋常星『太上道徳経講義』第七十九章

(1)あえて和合を求めるのは「人の道」である。しかし本来的には、そうしなくても自ずから和合は為されるものなのであり、これが「天の道」である。

(2)あえて和合をさせるためには、かなりの労力を費やさなければならない。大いなる労力を費やす有為の行いをして、あえて和合させれば、あるいは強い怨みも解かれることもあるかもしれない。しかし、それは人が和合をする性質を自ずからに持っているからに他ならない。

(3)有為を尽くして和合させたとしても、それは物が持つ自ずから和合する働きがそこで働いているに過ぎないのである。

(4)つまりは「天の道」が働いているに過ぎないのであり、そこには「善」が示されているとすることができる。

(5)こうしたことが分かっているので聖人は天の働きによるだけであり、無為であるのである。これは「自然の妙」ということでもある。

(6)この章は「そうであるから聖人は」以下が重要なのであって「道」の働きは「無為」であり、聖人は「無為」において行動をしているのである。


1、大怨を和そうとすれば、必ず怨みが残るものである。どうしてこれを善なることとし得るであろうか。

(1−1)あえて仲良くしようとしたり、あえて怨んだりするのは「有為」に依るものである。

(1−2)人は「大怨」を抱くことがある。そうして互いが争えば、必ず一方が傷つくことになる。こうした場合に「和」を促すのは全くの「善事」であり、互いの怨みも止むことになる。

(1−3)ただ互いの怨心が完全に解けていなければ、そこには少なからざる怨みが残ることとなろう。

(1−4)そうなれば、どうしてそこに「善事」が行われるであろうか。

(1−5)怨みを持っている者同士をあえて仲良くさせるのは「有為」の行為であり、そこには無理がある。そうであるから「大怨を和そうとすれば、必ず怨みが残るものである。どうしてこれを善なることとし得るであろうか」とされている。


(注 宋常星は「大怨」を「激しい怨」として解釈していて、「天」の働きであるとはしていない)


2、そうであるから聖人は「左契(注 天との関わりでのみ行動をする)」をのみ行うのであって、人のレベルで係ることはない。つまり「有徳」の者は天の働きと関係する(契)のであるが、「無徳」の者はそうしたことに関係することはない(徹)のである。

(2−1)強いて和合をさせる困難さについては既に触れたが、それは「有為」による和合であるからである。

(2−2)そうであるので「聖人は『左契』をのみ行うのであって、人のレベルで係ることはない」のである。

(2−3)「契」には左右の側がある。一般的にはこれはひとつのものとされるが「契」は互い(左右)がなければ成立しない。

(2−4)「左」の方を「財」を貸す方であるとすると「右」半分は「財」を借りる方となる。

(2−5)こうした貸し借りの時「左」「右」は共に対することになり、その間には「信用」が介在する。こうして初めて借財が成り立つのである。

(2−6)ここでは金を借りようとする「右」側と、金を貸す「左」側があることになるわけであるが、この時には貸す側である「左」側が主体的に動くことはない。また借りた金を返す時にも、金を借りている「右」側が貸している「左」側にアプローチすることになる。これ(注 「右」だけが意図をして、つまり有為に動くこと)は金を借りていれば自ずから生じる関係である。

(2−7)聖人は無為であり、自ずから民を感化する。これは(何もしない「無為」であるので)金を貸す「左」側とすることができる。そうであるから「聖人は『左契』をのみ行うのであって、人のレベルで係ることはない」とあるのである。

(2−8)聖人という立場で、こうした借財における「左」「右」の立場の「理」を考えるとすると、聖人は特別に「徳」を重視していることが分かる(注 貸している「右」を信用している)。

(2−9)「徳」を修するということが、つまりは(無為を実践するということであって)聖人が「左契」をのみ行うということであり、一般の人はそうした無為に係ってはいないわけである。

(2−10)聖人は他人をどうこうしようとしなくても、人は自ずから動くのである。

(2−11)これが「天の動きと関係する」ということである。これを「『有徳』の者が天の働きと関係する」としている。

(2−12)「関係する」とは中心となるということである。つまり「徳」が行為の中心となっているのである。

(2−13)「無徳」とは、天の行いを実践することができないということである。「徳」を実践することがないということである。「徳」をして人と係ることがないということである。

(2−14)有為で人を動かすことはできない。これが「関係することはない」である。

(2−15)「関係することはない」とは、例えば車輪を作る時に「轍(わだち)」がどのようにできるか、を考えることはないというのと同じである。

(2−16)「轍」は、車輪で押された地面につく跡である。車輪を作る者が「轍」に合わせて、それを作るとすれば、あえて意図して「轍」を作ろうとしているので、その行為は「有為」となる。相手に合わせているということである(こうしたことは意味がない)。

(2−17)「無徳」であれば無為をして人を感化することはできない。必ず有為をして努めなければならない。

(2−18)つまり「轍」に合わせて車輪を作るのは、相手に合わせて行動するということである。これを「『無徳』の者はそうしたことに関係することはない」としている。


3、天の道は(特定のものに)親しみを持つことはなく、常に「善人」と一体となっている。

(3−1)あえて和合を求めようとすれば、天の働きと関係を持つことのない(有為の)行為をすることになる。

(3−2)あえて求めることなくして自ずから和合する。これが天と関わりを持つ「有徳」の(無為の)行いである。

(3−3)有為、無為の違いは天の働きによるかどうかである。

(3−4)こうした有為と無為の違いを通して「天の道」を知ることができる。

(3−5)つまり全ての働きは「無為」によっている、ということである。

(3−6)社会にあって有為をして真の「福」を得ることはできない。天の働きによる「福」を得ることはできないのである。それは「天の道」が「無為」であるからである。

(3−7)「有徳」の「善人」は、常に天の働きにおいて「福」を得ている。生きる糧が自ずから得られ「福」が下されている。そして、これが維持され助長される。こうした「善人」のあり方は歴史を見れば明らかであろう。

(3−8)「親しみを持つことなく」であれば、和合することが難しいように思われるかもしれないが、「常に」とは「ごく簡単に」ということである。つまり自己の「徳」は、ごく簡単に天の「徳」と「親しみを持つ」のである。

(3−9)こうならなければ大怨を和合させることなどできるものではない。有為をして和合させようとしても不可能なのである。

(3−10)聖人はこうしたことをよく知っている。無為ではあるが主体的に行動をしているのであり、それは強いて有為によって行われているのではない。力を尽くして為されているのではないのである。また、そうした努力は無意味なのである。


〈奥義伝開〉

「大怨」は「大道」(第十八章)「大制」(第二十八章)「大象」(第三十五章)等と同じく、老子が多く「大」を冠する語を持ちているもののひとつでが、それらは全て「道」と一体となっていることを表している。「道」と「大」が等しいことは第二十五章では直接に述べられてもいる。そうであるから「大恨」は単なる「私怨」ではなく「公憤」といったようなもので社会的な矛盾や権力者の横暴など「道」に外れた行為に対する「怨」であるとすることができる。こうした「怨」は表面を糊塗して和合がなったことを装うのではなく徹底的に根絶されなければならないというのが老子の考えである。

「左契」は難解とされるが「聖人執左契」とあるのは「聖人は契を左(たす)くるを執る」と読まれるべきであろう。「契」はいうならば「天との契約」のことであり「天の理」のことである。聖人は「天の理」の働きを助けるように行動するということである。つまり、それは「人との契約」においての行為ではない、ということでもある。実際の契約は人と人の間で為されるとしても、それが「天の理」にもとるものであってはならない。これは法律であっても同様である。そうしたものを超えたところに「天の理」「天の道」の高度な倫理性がある。そうであるから聖人と同様に「徳」のある人は「天との契約」を履行している。そうでない人は、天との関係を「徹(こぼ)つ」つまり崩してしまっているわけである。

最後の「天道は親しきむことなく(天の道は(特定のものに)親しみを持つことはなく)」とあるのは「天の道」は普遍的に行われているものであることをいう。そして「常に善人と与(とも)にす(常に『善人』と一体となっている)」わけである。これは一体となろうとしてなっているのではなく、善人は自ずから天と同じ「理」によって動いているのであり、その行いは一体となっているということである。

また「人を責めず(人のレベルで係ることはない)」とあるのは「大怨」を是正する時に、そうした行為を行った「人」を責めるのではなく「行為」を除去することを第一とするということである。老子は「生存権」は天賦のものと考えており、如何なる人であってもそれを犯すことを良しとはしていない。


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