道徳武芸研究 「放鬆」ということ

 道徳武芸研究 「放鬆」ということ

太極拳では「放鬆」が重視される。これは「鬆」字訣といわれるものでもある。鄭曼青は師の楊澄甫に「放鬆」するように言われて力を抜いてみたが、澄甫からは「緩めすぎ」と言われる。そこで少し力を入れてみても「硬すぎる」と注意される。その繰り返しが続いたのであるが、ある時、夢で自分の腕が折れるのを体験してからは「それで良い」と言われるようになった。加えて実際の推手の練習でも格段に優位に立てるようになったので他の弟子たちからは「特別な秘伝を授かったのではないか」と疑われたらしい。

日本では「放鬆」を「力を抜くこと」と教えられる場合が殆どであるように感じているが、太極拳における「鬆」字訣は単に力を抜くことではなく、自在な意識、自在に技を出すことのできる状態をいうものである。余計な力を抜くといった程度の注意はどの武術でも、あるいはスポーツ、芸能でも言われることであろうが、そうであれば太極拳でわざわざ「鬆」字訣を立てる必要もあるまい。つまり「鬆」は太極拳の場合は太極拳独特の「境地」をいうものであるから、これは師からの伝授を受ける以外に習得することはできない。澄甫も「緩めすぎ」「硬すぎ」というしかないのであり「鬆」そのものの「境地」は広く心身の状態を示すものであるから、それを具体的、限定的に教えることはできないわけである。自在な動きを得るのは、力を抜くだけではなく、適度なテンションも必要となる。適度な緩みと緊張を得るには「呼吸」が適切でなければならない。適切な「呼吸」を得るには套路に習熟しなければならない。そうして「呼吸」が適切となれば「意識」もあるべき状態へと入って行く。鄭曼青が「腕が折れた」夢を見たように、ある種の意識の変革が生じるわけである。套路を練って行って、そうした意識の変容を得ることができれば「鬆」の一端が体得できたことになる。


中国で一般的に「放鬆」は「余計な力を入れない」「固くならない」という意味で使われることもあり、こうしたことは、どの運動においても言われることなのであるが、そうであるのに太極拳であえて「鬆」字訣を設けて、これを強調するのは何故であろうか。それは少林拳では全身に力を入れる訓練を前提としてなされるからである。つまり、かつて一般的に「武術」といえば「少林拳」であり、それは全身に力を入れるものであった。それに対して新たに知られるようになった太極拳は、そうではない。そこで「鬆」字訣が必要となって来たのである。

少林拳では「易筋経」と「洗髄経」があるとされるが、こうした名称のものがあったかどうかは別として修練の段階としては、このようなものがあったのは確実であろうと思われる(ちなみに現在は「易筋経」と称する功法もある)。また「易筋経」は練習のレベルを示すものであり、このことは孫禄堂が『拳意述真』で「易骨」「易筋」「洗髄」を三歩(三段階)の練功としていることでも分かる。少林拳における「易筋経」は套路を練る時に全身に力を込める方法である。こうすることでスキの無い状態を作ることができるとされている。

空手の三戦なども「易筋経」のひとつの形である。空手の三戦は鶴拳の系統の「易筋経」を受け継ぐものであるが、似たようなものは他の派にも伝えられている。おおよそ三戦のような呼吸法・息吹を用いるのは南派の特徴とすることができる。特に南派では「呑吐」と称される呼吸法を重視している。これに対して北派の少林拳では激しい呼吸を用いることなくゆっくりと套路を全身に力を込めた状態で練る。


尊我斎主人の著す『少林拳術秘訣』では、少林拳は「柔術」であるとしている。これは先に述べた「三戦」の説明と矛盾しているかのように思われるかもしれないが、そうではない。同書では少林拳に三乗がるとして、下乗は剛のみのレベルで、これはただ身体の鍛錬をしているだけの段階である。次の中乗は剛に柔が少し加わったレベルで、剛柔が相半ばするのが上乗であるとしている。そして剛柔が共にあるからこそ自在な動きが可能となるという。また、この「剛」は「力」のことであり、「柔」は「気」であるともしている。そして、力は柔を以て使うことができ、気は剛をして用いることが可能となるともある。これを簡単に言うなら「剛は柔を以て使うことができ、気は力をして用いることができる」ということである。

この「柔」というのは身体の連関性のことで、力の流れは肩、肘、手首が通り難い部位であるので、それを鍛錬によって通すのが「柔」術としての少林拳であるとされている。また気とは「意」識のことであり、攻防をしようとする意識は力がなければ実現できないとある。これをまとめれば「力をうまく運用するための方法が柔術としての少林拳であり、剛柔を得ることで力を使った攻撃の意思を実現することが円滑にできるようになる」ということになろう。ちなみに覚遠上人の教えとして一般的な力持ちの力は「柔」がないので攻防においては「浮」いていて使いものにならないとある。つまり少林拳の修行とは「柔」を得るためのものなのである。そうであるから少林拳を「柔術」としているわけである。


少林拳で「柔」を得て行くには五拳を練らなければならないとされる。

「骨」を練る虎拳

「力」を練る豹拳

「精」を練る鶴拳

「気」を練る蛇拳

「神」を練る龍拳

ここでは五拳とあるが、本来はひとつの練法があっただけであり、それは「強身の練習」から初めて「技撃の絶学」へと至るものであったと『少林拳術秘訣』にはある。つまり、この五拳は「あえて分ければ五拳となる」ということで、例えば虎拳だけでも最後の「神」の養成まで練ることは可能ではある。またこの分類からすると鶴拳の三戦を受け継ぐ空手の三戦は「精(内的な力)」を練るレベルであるからかなり高度な段階の套路であると見なすことができるであろう。

ただ、ここには「鬆」を見ることはできない。ちなみに『拳意述真』で「鬆」を「洗髄」の段階としているのが、それは「鬆」が意識に関することであるからである。つまり「鬆」は力を抜くとか、入れるではなく意識の変革が生じているか否かによって得られるものと考えなければならないのであり、鄭曼青が「腕が折れた夢」を見たことで「鬆」を得たというのも、このあたりに真意があると考えられるのである。


少林拳は始めに「剛」を得て、それを「柔」化して行く。これはヨーガと同じで始めに「集中」をして、その後に「三昧」へと入る方法、つまりストレスを掛けてそれを解放する修行法である。またアーサナ(体位法)でも逆立ちなど不自然な姿勢を取ってストレスの掛かった心身をシャバアーサナ(屍のポーズ)で解放する。こうしたプロセスを見ると少林拳が達磨由来、インド由来であるとされるのもあながち意味のない伝説であるとすることもできないように思われる。

一方、中国由来の太極拳では始めからストレスを掛けることを良しとしない。これは「中庸」を尊ぶ中国人ならではでもある。「鬆」の自在性は「武芸(身体)、道芸(精神)の適切なバランスの中にある」といえよう。それは時に応じて武芸にもなるし、修養としての道芸ともなり得るシステムである。そして、こうした状況において意識は「不知不覚」の境地にある。これは「知らず、覚えず」で無意識の内に心身が反応する状態である。これに対して少林拳は「先知先覚」で、剛柔が自在に転ずることで、相手の心身の動きを兆しの段階で知ることができる。このように「鬆」字訣は単に武芸に留まることのない太極拳のおおいなる可能性を示す教えでもあるのである。


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