道徳武芸研究 「なんば」という誤謬
道徳武芸研究 「なんば」という誤謬
現在「なんば」なるものが日本人本来の歩き方であるとする謬説が広く信じられているが、これは数年前に流行った「江戸しぐさ」同様に完全なる誤りである。そもそも「なんば」は日本舞踊で右手、右足あるいは左手、左足が同時に出て「不格好」であることを戒める時に一部で用いられていた語であった。それが江戸時代の絵画などを見ると、歩いたり、走ったりしている人が一様に「なんば」であることから「江戸時代の人は『なんば』で歩いていた」と考えられ、また幕末あたりからの西洋式の軍事訓練で行進を行うと多くの人が手と足を交互に出す動作の困難を覚えたとされることからも、近代以前の日本人は「なんば」で歩いていたのではないか、と考える人が出て来たわけである。
しかし、実際に「なんば」で歩いてみると実に不自然でとてもまともに歩くことができない。加えて能楽や神道などの礼法を見ても「なんば」ではなく上体を動かさないで歩いている。こうしたことから本来の「なんば」は手足を同時に前に出すものではなく、上体を振らない歩き方であるとされるようになって来ているのが「現在」である。つまり「なんば」という言葉の意味が変わってしまっているのである。それは「なんば」を「正しい歩き方」とする根拠の無い考え方から生まれたもので、上体を振らないのが近代以前の日本人の歩き方であるとするなら本来的には「なんばは日本人の昔の歩き方ではない」とされなければならなかったわけである。
こうした「なんば」の意味の変更がなぜ不適当かと言えば「なんば」は「南蛮」であり「難場」であるとされ意味としては「奇異である」「難しい」「普通ではない」といった否定的なニュアンスを有する語であるからに他ならない。つまり「なんば」を肯定的な文脈で使うのは不適切であるということである。
また歌舞伎の「六方」が「なんば」であるとして紹介されることもある。確かに動きとしてはそうである。歌舞伎で「なんば」が見られるのであるなら、やはり近世にはそうした歩き方があったのかと思うかもしれないが、歌舞伎は「傾(かぶ)き」であり本来が「まともではないもの」をいう語であった。今で言うならば「アンダーグラウンド」な演劇が「歌舞伎」であったのである。つまり、そこで演じられていることも「まともではない」ことであることに留意しなければならない。また「六方」が演じられるものとして有名なのが弁慶であり、その異常なまでの力強さを表現するための演出として「六方(飛六方)」がある。他には乱暴な旗本の演出では「丹前六方」というものもある。これも身分を笠に乱暴を働いていた旗本を表す動きとなっている。つまり「六方=なんば」の身体表現とは「力強さ」にあったわけであり、そのために日本舞踊のような優雅さを求める舞踊では好ましくない動きとされたのであった。
古来より日本では「力強さ」は好ましくないもの「醜(しこ)」なるものとされて来た。相撲で行われる四股はまさに「醜」なのであり、相撲取りの名前は「四股名=醜名」であった。そしてまさに相撲のすり足では右手右足、左手左足つまり「なんば」での歩き方が練習されている。また抜刀の時も右手右足を前にする。これは利き腕の力を最も大きく使うための身法、歩法であるからである。通常の歩きで上体を振らないのも、何時でもこうした抜刀のできる姿勢を取ることができるようにするためでもある。これを手を振って歩くと少なくとも右手が後ろにある時には抜刀はできないので、相手を斬ろうとするならば右手が後ろにあるタイミングで襲えば良いということになる。
また絵画で「なんば」になっているのは、これは力強い姿勢を描くことで絵に動きを出そうとするためである。これは日本舞踊とは反対の演出となる。特に近世の日本の絵画では細かな陰翳を付けるような技法は用いないので、大まかな線で動きを表さなければならない。そうした中で力強さの表現として歌舞伎の六方を通して人々のイメージにある「なんば」を使うのが適切と考えられていたのが、絵画で見られる「なんば」の理由であり、それをして日常的に「なんば」で歩いていたとするのは早計であろう。
「なんば」は力を出す時の身法、歩法としては有効であるが、普通に歩いたり、走ったりする時には必ずしも有効ではない。長丁場を戦わなければならないボクシングではランニングが重要な練習とされている。練習としてはランニングの間にシャドーボクシングを入れることもあるようである。その時には走るのを止めてボクシングの動作を行う。それは走るのとボクシングでは求められる身法、歩法が違っているからである。これは行うことが違うのであるから当然でもあろう。「なんば」はあくまで大きな力を出す時の特殊な身法、歩法なのである。
「なんば」の誤謬とは、
1、「なんば」は歌舞伎の演出で「六方」と称されるように日常的な身法、歩法ではない。
2、「なんば」は相撲では「すり足」とされる。こうした身法が古くにあったことは間違いがないが、あくまで相撲という特殊な場合に用いられるものであった。
3、現在、使われている「なんば」は本来の意味から変わってしまっており、また語の用い方そのものも不適切となっている。「なんば」という語を別な意味で使うのであれば別な語にするべきである(これは本来の「なんば」で使っていた人たちが、それでは歩き難いことが分かり、訂正をすることなく別な意味で使うようになったために起こったことと思われる)。
というようにして生じたものであるというのが、そのおおよそであろう。
人は往々にして奇異なものに不思議を見たがるものである。しかし「なんば」走りを提唱していた選手が実際の試合では普通に走っていることを見ても、結局は合理的でなければ実用には適さないということである。また相撲などのように逆に奇異に見られることの中に合理性を見出すことのできることもある。
一定の合理的な視点を失ってしまえば、せっかくの先人の築き上げた文化から適切な情報を得ることができなくなってしまう。注意したいところである。