丹道逍遥 洞天福地と「陽光三現」の秘密
丹道逍遥 洞天福地と「陽光三現」の秘密
仙道では修行を成功させるための条件として「法、侶、財、地」の重要性をあげている。
「法」とは教えのことである。教えが適切でなければ仙道の奥義に達することの不可能であることは言うまでも無かろう。
「侶」とは「法友」のことである。ただ自分だけ修行をしても、なかなか成果を得ることは難しい。はやりそこには師となる人物が必要であろう。また自分の得た「法」を語り合うことのできる友や「法」を伝える弟子に巡り合うことで、より理解が深まるものでもある。
「財」は財産のことで、ある程度は修行に専念できる余裕のある生活状況でなければならない。
「地」は修行をするのに適した環境が得られなければならない、ということで、この「地」の最も優れたところを「洞天福地」と称する。
つまり「洞天福地」はいうならばパワースポットのことなのであるが一応、それには一定の場所が指定されている。「洞」とは「通じる」という意味であるから「洞天」は「天に通じる」の意であり、十大洞天と三十六洞天が定められている。一方、福地には七十二の地域が定められていている。
また、これらの地では「神仙」が居ることになっているが「神仙」は、今でいうならば「気」のことである。洞天は天の気と交流できるところであり、福地は地の気と交流できる場所であるということができるであろう。これらの地が重要なのは、こうした場所で修行をすれば得道(悟り)を得やすいとされているからに他ならない。こうしたところは「霊山」であり仙道の青城派で知れる青城山は十大洞天の中に含まれているし、蛾眉派の蛾眉山は三十六洞天の中に見られる。このように仙道界で有名な一派を形成する人たちもこうした「洞天福地」で修行をしたのであった。
ただ「洞天福地」は、もとは霊薬である丹を得るための実験室を作る場所であった。そうした霊薬を作るには俗世間を離れた清浄なところではないといけないとされており、そうした秘密の場所が「福地」とされるようになったわけである。一方で、得道(悟り)には神仙からの伝授を受ける必要があるとされていた。天の仙界に通じる場所で修行をしていると天から神仙が降りて来て、教えを授けてくれるという場所がある。およそ「神」という字は「示」と「申」でできている。これは「申し示す」という意味である。つまり「神」とは教えを授けてくれるものであり、そうした仙人のことを「神仙」というのである。このように本来は「福地」と「洞天」は成立を異にしているのであるが、霊薬が何ら役に立つものではないと知られるようになったからは共に「修行に適したところ」として認識されるようになったのである。
要するに「洞天福地」とは「新たな境地を開くことのできる場所」ということができるのであり、それは「玄関」の存する場所ということになる。「玄関」は今とは違った深い境地に入ることのできる「関」のことである。そうした「関」はどこにあるか分からない。また固定した場所にあるわけではない。そうであるから青城山に行っても、誰もが仙道の修行を成就できるわけではないのである。とにかく何処であっても「玄関」に出会って、それを開くことのできるところが「洞天福地」となる。こうした「玄関」が出現するのには「天、人、地」の合一がなければならない。「天」は時間であり、「人」は心身の状態、「地」は空間である。ある時(天)、ある状態の心身(人)で、ある環境(地)に居る時、「玄関」は開かれるのである。
実は「玄関」の経験は、ほとんどの人にあるものでもある。例えば美しい風景を見て深く感動したり、ある絵を見て思ってもみなかった発想を得たりした経験は誰にでもあるであろう。禅の悟りでも、掃除をしている時に悟ったり、偶然何かの音を聞いて悟ったりすることもある。これは、その時に「玄関」が開いたということができる。あるいは「玄関」は「異界への扉」ということもできる。
「観光」という語があるが、これは「光を観る」という意味である。つまり観光地とは、ある種の霊的なエネルギーを観ることのできる場所というのが本来の意であった。そうであれば「観光地」はまた「洞天福地」であるということにもなろう。そして、この「光」とは何か、というと、それは「玄関」の出現に他ならない。美しい景色を見て感動する。それはまさに「玄関」が開いたからである。また、その時には「天、人、地」の合一が生じてもいる。
仙道では「陽光三現」の秘訣がある。これは「陽光」が三回現れて修行が成就するということである。この光が現れるのは、
練精化気 一現
練気化神 二現
練神買虚 三現
還虚合道
とされる。これは粗大な感覚(精)から次第に微細な感覚(神)へと瞑想が深まり、最後にはこの世界が「実」ばかりではなく「虚」によっても成り立っていることを確信できるようになる過程である。こうした瞑想のことを荘子は「虚室生白」としている。「白」とは「光」のことであり、それは修行者の意識が変容した時に生じる。そうであるから「光」の感覚、すなわち瞑想の深まりを自覚する度ごとに「虚」の感覚は確かなものとなるのである。それを荘子は「虚室生白」と言っている。「虚室」とは小さくは自己であり、大きくは宇宙のことである。この世のあらゆるものは「虚」をベースにしているというのが道家の世界観である。しかし俗世界に生きる人は「実」の世界観にとらわれて「虚」を知ることがない。そうであるから修行をして「虚」の存在のあることを知って行くことが大切と考えるのである。
また、この「光」は「虚」の「光」であるので、境地の深まりは「光」を幻視することではないことには留意しておく必要がある。幻視される「光」はあくまで実の「光」である。それに対して「虚」の「光」とはその「感覚」つまり「虚」の感覚を象徴的に言うものなのである。日々「虚」への修行を続けていれば「洞天福地」に出会った時に得道を成就することができる。それは天機を待つより他にはない。