丹道逍遥「チャクラを開く」
丹道逍遥「チャクラを開く」
今では「チャクラ」と聞いて、身体に7つの円盤状のものをイメージできる人もある程度は居ることであろう。こうした日本でのチャクラのイメージは主として神智学によるもので、リードビーターの『チャクラ』に負うとことが少なくない。これは1970年年代あたりから広まった「精神世界ブーム」でそれまで知られていた体操ではなく、霊的なヨーガが紹介される中でその神秘的な側面としてクンダリーニやチャクラも知られるようになるのであるが情報源の多くは「精神世界ブーム」がアメリカ発であったこともあり英語圏によるものであった。そうしたこともあってヨーガの情報も一見して「科学的」と見える神智学などが広く受け入れられ安かったわけである。インドではチャクラはマントラや梵字、ヤントラ(記号的図像)などと関連付けられており、ただ円盤状であるとのみされるわけではないが、こうしたインドのヨーガでの本来の形は複雑で容易に理解できるものでのないし、基本的にはその奥義は口伝であることもあり、いまだ一般的とは言えないようである。
ちなみに万博のインド館の前にある「車輪」も「チャクラ」である(法輪)し、チャクラムという武器もインドにはある。思うにガンジーが非暴力運動の時に回していた糸車(チャルカ)も同じく「チャクラ」的なイメージが根底にあったのではないかと思われる。そうした車輪を見つめることで、ある種の瞑想的な気分になって『バガヴァッド・ギータ』が説く「寛容」の精神を養うことにも少なからず寄与したのではないかと思われるのである。
7つのチャクラを開くには、以下のようなパターンがあるとされる。
1、ムラダーラ・チャクラから開いて頭上あたりにあるサハスラーラ・チャクラを開くとクンダリーニが覚醒して昇って来る。
2。サハスラーラ・チャクラを開くとムラダーラ・チャクラにあるクンダリーニが覚醒して、サハスラーラ・チャクラまで次々にチャクラを開いて行く。
3、クンダリーニを覚醒させると、その上昇に伴いムラダーラ・チャクラからサハスラーラ・チャクラへと開かれる。
こうしたプロセスがいくつかあるのは、ムラダーラ・チャクラやそこにあるシャクティ(性的な力)の象徴であるクンダリーニを先に開くと性的な力が強くなり、いろいろな肉体的な欲望が高まって修行に困難を生ずるためともされているからである。そうであるから先にブラフマーとの合一を可能とするサハスラーラ・チャクラを開いて、精神的な安定を得てからシャクティを解放して、最終的な完全なる梵我一如(ブラフマーとの合一)を果たす方が良いとする考えもあるわけである。
ヨーガで興味深いのはチャクラとクンダリーニという二つを開くとしている点である。これはヨーガの基本がダラーナ(集中)とサマーディ(三昧)に分かれていることに起因している。ヨーガでは先にダラーナで幻影を作り出し、サマーディでそれを消す。つまりダラーナの時に円盤状のものやいろいろな象徴的な図像としてチャクラが幻視されるわけである。しかし、こうした幻視の起きるような状態は精神的には正常ではないのであるから、それを正常へと戻すのがサマーディとなる。
芥川龍之介は精神を病んだ時に「歯車」のような光の輪が見えたりしたとされる。これは脳の視覚を司る部分が充分に働かなくなった時に生じるとされるので、集中的な瞑想で強い負荷が脳に掛けられるとそうした現象の起こることが予想されるわけである。中国ではこうした幻影を見るなどの異常があった時には瞑想を中止することが求められるが、インドではそれを意図的に起こして消すことで精神の制御が可能となると考える。これは気血の流れを促すために倒立(シルシャーサナ)をして、異常な状況をつくって、静かに横になる(シャバーサナ)ことで円滑な状況を得ようとするのと発想は同じである。ただ中国ではそうしたやり方は中庸を欠くとして行わない。
チャクラと松果体(アジナー・チャクラ)、太陽神経叢(マニプーラ・チャクラ)などの器官が関係しているとするのも神智学からである。神智学でもヨーガでもチャクラはアストラル体(微細身)にあって、フィジカル体(粗大身)にはないとされている。この微細身と粗大身は、コップの中の「水=微細身」と「豆=粗大身」として例えられる。それぞれの密度が違うので「コップ」つまり「身体」の中で微細身と粗大身が共存しているというわけである。しかし、実際にはそうした微細身の入り込む余地を肉体に見出すことはできない。それは微細身が「脳」の中にあるからである。チャクラが粗大身の特定の部位と関連付けられて「円形や色として見えている」ように感じられるのは、先にも触れたように脳が正常に働いていないからであり、こうした構造は「霊」を見る時と同じである。
本来、視覚情報は外界にあるものを視覚を通して脳に信号として伝えられたものが一定の物として認識される。しかし「霊」や「チャクラ」は外にない物があるかのように認識されるわけである。こうした状況を意図的に作り出すのがダラーナであり、それと同じ状況になっているのが視霊者である。視霊者の場合は自然にそうなっていることが多いので、それを正常に戻すことは難しい。余談であるが、死後の世界というのも、こうした構造で幻視されている。つまり全ては「脳」の中にあるのである。こうした見方はカントが視霊者であるスエデンボルグを批判した『視霊者の夢』で述べている。カントはいまだ無意識などの発見されていない時によく霊的な世界が「脳」の中にあることを見抜いており、その卓越した見識には驚くばかりである。
ヨーガではチャクラと肉体はナーディという霊的な器官によって結ばれているとされる。そうしたことを基に近代に成立した神智学では松果体や太陽神経叢、あるいは視床下部(サハスラーラ・チャクラ)との関係をいうが厳密にはこうしたことは「疑似科学」と見るべきであり、何ら科学的には実証されていない。そもそもチャクラ自体があると確定しているわけではないのである。
大体において瞑想をしていれば心身が安定して活性化する、要するに元気になる、ということである。そうなれば身体のいろいろな器官も活発に働くようになるわけで、特定のチャクラに集中したから特定の器官だけが活性化されるわけではない。
あくまで「チャクラ」は幻影である。それを見ること自体には何らの価値もないし、そうした幻影が見えている状態は精神が正しく機能していない危機的な状態であるともいえる。そうであるなら、そうした方法をとる価値はどこにあるかというと、それはカントも言うように「道徳性」の獲得にある。もし「チャクラ」を開くことで「エネルギーが浄化」されてより高い「道徳性」が得られるとしてヨーガをするならば、それは価値のある行為となる。一方でただ幻影を見るだけであれば、危険でもあるので止めた方が良いであろう。