道徳武芸研究 意拳史上の重大疑義〜尤彭煕の「空勁」〜
道徳武芸研究 意拳史上の重大疑義〜尤彭煕の「空勁」〜
尤彭煕(1902〜1983年)は意拳の王向斉の弟子で、晩年はアメリカに在住しており、触れること無く相手を倒す「空勁」で知られていた。これを「意拳史上の重大疑義」として取り上げているのは劉正で意拳史において疑問とされることについて論述をしている「意拳史上若干重大疑難史実考」(劉正編纂『意拳正軌』所収)において、そのひとつとして取り上げられている。また「空勁」は凌空勁とも称され、意拳独特のものではなく、いろいろな武術で行う人が居て、最近ではYouTubeでも見ることができる。
日本でも合気道の関係では植芝盛平も晩年は触れないで倒す演武をやっていたし、大東流の堀川幸道、空手では江上茂なども、そうしたことができたようである。また、かつては気合術の不動金縛の術などとしても知られていた。また禅僧が泥棒に「喝!」と言うと泥棒は動くこともできなくなった等というエピソードも語られることがある。凌空勁について武術文献上、明確にこれに触れたのは陳炎林『太極拳刀劍桿散手合編』が最初であろう。それによれば、「ハッ」と掛け声を発すると相手は後ろに下がる、とある。また楊澄甫の兄である楊少侯のエピソードとして蝋燭の火に手をかざすと火が長く伸びた、とも記している。しかし陳は「こうしたことは深く探求するべきではない」と釘を刺すことも忘れていない。
尤は上海の同済医学院を卒業した後、ドイツのヘルデルバーグ大学で学位を得た皮膚科の医師である。当時、同済医学院とヘルデルバーグ大学が提携関係にあったための留学でもあったらしい。劉正の「問題」としているのは「空勁」は意拳に由来するものか、という点がある。楊紹庚の『意拳詮釈』によれば、楊が尤に「空勁は誰に学んだのか」と聞いたところ、
「チベットの活仏から学んだ。黄帽派の密教の高度な段階と、意拳のトウ功をひとつのものとして練習している内に自然に出て来るようになったもので、それをさらに深く探求して行って現在のような空勁ができるようになった」
と述べたとある。ただ活仏の名を楊は「昔のことなので忘れた」としている。尤の学んだとされる密教を楊は黄帽派(ゲルク派)とするが、赤帽派(ニンマ)派との説もある。一般に清朝の中国ではダライ・ラマの系統でもある黄帽派が広く行われていたようであるが、後に見るように楽奐之や尤の属していたのが「諾耶精舎」であることからすれば「諾耶(ノエマ)」は「ニンマ」に発音が近いので赤帽派の可能性が高いようにも思われる。
また胡菌夢の『生命的不可思議』には上海で二人の「高人(優れた人物)」に出会ったとの記述がある。それには、
「チベット密教と太極拳を修めている楽幻智老師(奐之)と、その弟子で老師によって第三の眼を開かされた皮膚科の医者の朱仲剛」
であったとある。先に見たように尤彭煕も上海のチベット密教の団体である「諾耶精舎」に属していたことや楽が「空勁」をよくしたとされることなどからすると、尤の言う「活仏」は楽奐之のことであったのかもしれない(このあたりの事情を何故、尤が曖昧にしたのかは疑問である)。ちなみに楽は董英傑の弟子で、尤は太極拳と気功を習っていたとされる。そうであるなら尤も朱と同様に楽に第三の眼を開いてもらったとも考えられよう。ちなみに楽の「空勁」は3メートルほど離れたところから相手を飛ばすことができたらしい。当時の人は楊澄甫でも孫禄堂でも呉鑑泉でも、手が触れた瞬間に相手を飛ばすことはできたが、触れないで飛ばすことはできなかったとされている。
1955年、尤は北京を訪れ王向斉とも対面した。そして王の高弟である李見宇に「空勁」を試みるが失敗したという。また姚宗勲や楊紹庚にも試みるが「何の効果も見られなかった」とされている。さらに数日後には北京を訪れた姚海川にも試したがこれも失敗した。しかし1963年に上海で楊紹庚の弟子には掛けることができたらしい。最後に劉正は趙新道の「所謂、空勁は(略)言われるところの『超能力』に属するものなのであろうが、攻防に使えるかどうかは未だ実証されてはいない」という見解が妥当であろうとしている。つまるところ「空勁」は意拳に発するものではないこと、そしてその真偽は別として攻防に使えるものでないことを、その結論としているようである。
さて「空勁」であるが、これについては既に紹介したエピソードの中に答えは出ている。つまり触れることなく相手を倒すとする「空勁」は、掛かる相手がタイミングを合わせてくれなければ掛けることはできないのであるからこれは武術には使えない。尤が北京で兄弟弟子に掛けることができなかったのは、それらの人たちには「空勁」なるもののあることを共に「共有」する必要がなかったからである。彼らが自分たちは出来ず、尤たけがすることの可能な「空勁」の存在を認めることは自分たちが尤より劣ることの証明になるだけで、そうしたことをあえて「共有」するメリットは全くなかった。そうであるから「空勁」は掛からなかったわけである。しかし楊の弟子の一人に掛けることができたのは、その弟子は「空勁」のような絶対的な優位に立つことのできる「技」があって欲しかったのであろうと思われる。こうした人には「空勁」を「共有」するメリットがあったわけである。こうしたことは「空勁」現象については普遍的に見ることのできる構図である。
太極拳などで高度な技とされる空勁は、無いのかというと、そうではない。それについては既に紹介した「楊澄甫でも孫禄堂でも呉鑑泉でも、手が触れた瞬間に相手を飛ばすことはできたが、触れないで飛ばすことはできなかった」に答えがある。空勁とは「自分の間合いで相手に接触することのできる能力」のことをいうのである。つまり楊澄甫や孫禄堂、呉鑑泉は最も有利な状態で相手に触れたので、触れた瞬間に相手を飛ばすことができたのである。こうしたことは別には「敷」字訣として伝えられている。意識が広く敷かれて相手を包み込むことができるようになれば、触れる前から相手の心身の状態が分かるようになり、こちらは最も有利な状態で接触が可能となるのである。こうしたことの大切さは攻防においては広く言われていることであるが、太極拳ではそれをシステムとして接触した推手の感覚を延長・拡大することで習得できる、としている。つまり自分の内的な感覚を高めることが、外にも及ぶようになるのであり、それは相手の内面へも達する。そうなると触れる前から相手をコントロールできるようになる。これが空勁なのである。