宋常星『太上道徳経講義』第七十五章

 宋常星『太上道徳経講義』第七十五章

(1)もし統治者が統治をしようとするなら自然の大法をして統治をするべきであろう。

(2)君子が身を養うには自然の大道によるのであり、自己の好みに任すことはないし、自己の知見によるのでもない。これは統治の大法と同様である。

(3)大法が立てられて統治が行われれば民は飢えることなく統治は容易に為されることであろう。

(4)外的なもの(注 薬など人為によるもの)によることなく生を養う。内養(注 気を練るなど)を厚くして生を養うのである。これは養身の大道である。

(5)大道が明らかとなれば、必ずしも生に執着することはなくなる。そうなれば自ずからよく生きることができるようになる。

(6)民を「上」にする(注 統治者が「礼」を以て対する)というのも、こうした大道によるものである。そうなれば国を治めるのも難しくはない。

(7)道を修する者が、よく大道を体していれば、問題なく自己においても養生することができるであろう。

(8)治国と修身は異なることではあるが、その理においては等しいのであり、この章ではそうしたことが述べられている。

(9)生きることを貴ぶのは、必ず大道によらなければならない。

(10)もしそうでなければ(大道によることなく)治国に心を砕いている君主のように、どのように生を養うことに熱心でも、それは自ずから死へと至ることになるのである。


1、民が飢えるのは、統治をする者が税を多く取るからである。そのようなことをしているから民は飢えるのである。

(1−1)人は田を耕して食を得て、井戸を掘って水を得る。こうして民が生きていれば良いわけである。そうしていればどうして飢えることなどあるであろうか。

(1−2)民が飢えるのには理由がある。

(1−3)太古の聖なる王が統治していた頃、その統治には節度があり、国を治めるのにも民に過度な要求はしなかった。

(1−4)統治者が民へ行うことに税を取ることがある。税を取られる民も統治者もそれぞれが適切であれば共に豊かであることができる。

(1−5)しかし後世になると統治者は恣に統治をしようとし、民情を見ないで思いのままに法を定める。そして税を重くして厳しく取り立てる。欲しいだけ税を取り、その多すぎることを顧みることもない。

(1−6)そうなると民は税に耐えられなくなってしまう。民が飢えるのは、全て統治者の責任である。

(1−7)そうであるからここでは「民が飢えるのは、統治をする者が税を多く取るからである。そのようなことをしているから民は飢えているのである」と述べられている。


2、民を治めるのが難しいのは、統治者が恣意的な統治を行うからである。そうした民情に合わない統治をしているので統治が困難となるのである。

(2−1)徳をして民を正しい生活に導く。礼をして統治を良く行えるようにする。こうした君主をして民を治めるならば、どうして統治が困難となろうか。

(2−2)統治が難しいのは、そうある理由があるからである。

(2−3)太古の聖なる時代にあっては、(天の理に則した)法をして民を導いていた。そうして統治をしていたのである。そのような統治には民も反対することなく、統治者の示す規範に従っていた。それはその宜しきを得ていたからであり、統治者も民の一体となっていた。

(2−4)しかし後世の君主は民を「愚民」と見て、なんとかして思うような統治をしようとした。そして多くの法令をして民を縛ろうとしたのである。民を騙して統治をしようとしたわけである。

(2−5)加えて君主は自己の知略による統治が全く有為によるのであり、民を搾取しているとの認識が無かった。

(2−6)民の統治が難しいのは、全て統治者に原因がある。そうしたことを「民を治めるのが難しいのは、統治者が恣意的な統治を行うからである。そうした民情に合わない統治をしているので統治が困難となるのである」としている。


3、民が死を顧みないのは、生だけに固執しているからである。そうであるから死を考えることが無いのである。

(3−1)生きることは天の理の実行である。死ぬことは天の理の終了である。

(3−2)生において恥じることがなければ、死をも受け入れることができるであろう。

(3−3)人はどのようにして死に至るのであろうか。

(3−4)ただ死を顧みない者でも、全く死にたいとは思わないことであろう。

(3−5)およそ生に執着するとは、金玉を得て富を蓄えることに熱心であることであろうし、高い位にこだわることでもあろう。また美しい容姿を得ていれば優越感を持って生きることができるであろう。このように好きなだけ食べられて、高い位も得て、豪華な衣服を着る。こうして、あらゆるものが備わっていれば、よく生きることができるものである。

(3−6)しかし生きることに執着し過ぎると、やはり生は大いに損なわれて行くことになる。これは天の理に反すること甚だしいからであり、寿命も削られることとなろう。

(3−7)生に執着し過ぎると、必ず死を顧みることを忘れてしまう。そうしたことを「民が死を顧みないのは、生だけに固執しているからである。そうであるから死を考えることが無いのである」と教えている。


4、ただ「無」をして生きようとする者は、賢者であり生を貴ぶ者である。

(4−1)ここにあるのは、これまでの総括である。それを更に詳しく述べている。

(4−2)「生きようとする」のは「死」に反することである。

(4−3)「生を貴ぶ」とは生きることを軽んずることの反対である。

(4−4)しかし、それは必ずしも生きることに執着することではない。ただ「無」をして生きるのであり、生に執着する気持ちにとらわれてはならない。

(4−5)決して、こだわりの心を持つことがなければ、虚静でとらわれなく(恬淡)居ることができるし、静かで(寂寞)、無為であることが可能となる。これは生に執着しないからである。

(4−6)そうなれば最高の大道の悟りを得られるであろう。充実した生を送ることができるであろう。暮らしに困ることもなく、生きることができるであろう。義と理に違うことなく、物欲にとらわれずいることができるであろう。

(4−7)そうであるのは生に執着しないからである。そうしたこだわりから脱することが真に生を貴ぶことになるわけである。

(4−8)そうであるから道の修行をする者は、楽しみを極めようとしてはならない。欲望を満たそうとしてはならない。

(4−9)有為をして自己を養うことは結局のところ可能であろうか。それは自己を滅ぼすことになってしまうものである。

(4−10)物的なものには限りがある。これを過度に求めることは自己の「性(こころ)」と「命(からだ)」を傷つけることになる。「一」を抱くことの純真さを持つべきであり、谷神の自然であり不死であることを見習うべきである。そうであれば「性」と「命」は自然に長らえることができよう。

(4−11)こうしたことは、税を取ることが多ければ民は苦しむと、いうのと同じであり、それは有為をして統治をしようとすることに原因があるのである。そうした有為によるものが、天の理にそうものではないことを知るべきであると、この章で老子は教えている。


【補注】「谷神」は『老子』第六章に「谷神は死なない」として出てくる。この言は太古の信仰で言われて来たことのようで、老子の考えからすれば「死なない」ということはあり得ない。ただ、しかし老子はこれを生成の働き、つまり「大道」の象徴と考えている。老子の考え方からすれば「谷神」が死なないのは、そう見えるだけであって、自然のままに生死が繰り返されているので、人には気づかれないだけであるということになろう。


〈奥義伝開〉

老子の考える社会の弊害は「税」と「兵」である。これが無くなれば理想の世の中になるとしている。「税」と「兵」が必要なのは民ではなく収奪者である。その頂点に立つのが「王」である。人類の歴史はこうした収奪者としての「王」を廃しようとして王制から立憲君主制、そして「王」が大統領として民主的に選ばれる共和制へと移行している。ただ社会を合理的に動かして行くにはリーダーとしての「王」は必要でもある。そこで老子は無為の「王」を理想とする。それは具体的には生産の現場からは引退した長老のような者がボランティアで春になれば「種を撒こう」、秋には「刈り取りをしよう」と、誰もが納得できる行動の指針を的確に出すような存在を想定しているようである。

この章では政治と養生をひとつのものとして、共に「無為」でなければならないとする。老子において政治も養生も「生きる」ということにおいて等しい行為であったわけである。


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