宋常星『太上道徳経講義』第七十四章

 宋常星『太上道徳経講義』第七十四章

(1)聖人が世を統治していた頃は大いなる「道」をして民を治める法を作っていた。大いなる「徳」をして民の心を正していた。

(2)民は民を治める法により生きるための規則を知り、民の心は正されて自然と好ましくない行為をしなくなっていたのである。こうして天下は適切に治まって、刑罰を設ける必要もなかった。

(3)しかし後世になって「道」は世に行われなくなり、「徳」も顧みられなくなった。そうなれば民をあえて教え導くことが必要となる。その結果、民はますます悪を為すようになった。

(4)聖人の教化が広がっていた頃は、民は死を恐れることもなかった。

(5)しかし悪が行われるようになると、民は死を恐れるようになった。そうなると為政者は統治にそれを利用しようとして、多くの民を殺すようになった(民に恐怖を植え付けて行ったのである)。こうして悪はますます広がって行った。

(6)このような経緯を踏まえて、この章では愚人の無知を憐れんでいる。深く民を上とすることの意味が説かれている(つまり、それは法の恐怖ではなく、礼による道の教化による統治のことである)。

(7)ただ何をやれば統治ができるというものではない。天下や後世への影響を考えると、それは容易に答えられるようなものではなかろう。

(8)この章では「殺」ということに触れられているが、それを民を上とする(聖人の統治)ということから説いているのであって、民をして死の恐れを利用して統治しようとすることを良しとするものではない。


1、民が常に死を畏れることがなければ、どうして死は畏れるべきものとなろうか。

(1−1)民は一様ではない。民には善き民がいる。民には頑迷な民もいる。頑迷というのは「理」をわきまえない行動をする民のことである。こうしたことをしていれば、必ず長生きはできないものである。

(1−2)常に死を畏れない者は、刑罰を設けて罪を与えても、それに屈することはない。

(1−3)死を畏れない者は、それを利用して従わせることはできないのである。

(1−4)聖人は民を上として統治をするのであるが、それは「死」の恐怖で従わせるのではなく、道のままに自ずから民を服さしめるのである。

(1−5)「どうして死は畏れるべきものとなろうか」とは、つまり死を忌み嫌わず受け入れるということである。こうしたことを「民は常に死を畏れることがなければ、どうして死は畏れるべきものとなろうか」としているのである。


2、(そうした状況において)もし人をして常に死を畏れさせたならば、それは特異なこととなろう。自らがこだわって民を殺そうとする。こうしたことをあえてするべきであろうか。

(2−1)ここで述べられているのは、先の文を受けてのことである。加えてその意味をより明らかにしようとしているわけである。

(2−2)常に死を畏れることのない者が、やりたい放題をするのは、ひとつの道理としては理解されるであろう。しかし、もしこうした人が死を畏れるようになったならば、あえて決められた法を犯すことはなくなるであろう。

(2−3)これはどこでも言えることではあるが、法を制定することは天の「理」に反しているのであり

、それを顧みることがないということである。天の「理」を犯すことを厭わないということである。

(2−4)こうした常なる「理=道」に順じてないことを「特異」とする。

(2−5)それは国法をもって統治をするということである。刑罰を行って、それをして民を殺すということである。

(2−6)個々人には個々人の基準があることであろう。

(2−7)そうであるなら死を畏れることを、どうして常に悪とすることができるのであろうか。

(2−8)それは王法が悪であるからであり、それは民を死へと至らしめるものであるからである。こうした場合に、もし死を畏れない人で居れば、それは全く王法を畏れることがないということになってしまう(そうであるから為政者は民をして殺される恐怖を植え付けようとするわけである)。

(2−9)こうしたことを「もし人をして常に死を畏れさせたならば、それは特異なこととなろう。自らがこだわって民を殺そうとする。こうしたことをあえてするべきであろうか」としている。


【補注】人々に「死」を畏れさせるようにすることは自然な行為ではない。こうした「道」に反することを行うのは特異な行為であるといわなければならない。そのためには恣意的に民を殺して「道」に外れた恐怖の感情を体験させる必要がある。こうした「道」に反することをして「死」への恐怖心を芽生えさせ、統治をしようとするのは好ましくない「特異」なものとしている。


3、常に「司殺」があるところに「殺」が行われる。

(3−1)死を畏れることを知らない者は、例えその人が殺されたとしても終生、死を畏れることがなかった、ということになる。

(3−2)人が人を殺すような悪を為さないのは、つまりは人を殺しても何の益もないからである。

(3−3)そうであるから人は無為にあって人を殺すことはないのである。

(3−4)死を畏れないといっても、それでどうして死なないということがあろうか。

(3−5)天の「理」に反するようなことをしていれば天誅は必ず加えられる。鬼神の罰は必ず与えられる。この世の刑罰にかかることがなくても、必ず罰は下されるものである。

(3−6)「常に「司殺」があるところ」とは、人智の及ばないところ、ということである。そうしたものが「殺」を行うに当たっては、どうしてそれを逃れることができるであろうか。

(3−7)そうしたことを「常に『司殺』があるところに『殺』が行われる」としている。


4、「司殺」に代わる者は「大匠のタク」に代わる者と謂うことができるであろう。つまり「大匠のタク」に代わる者は、その手をして傷つけることのないことは希(まれ)である。

(4−1)「大匠」とは「タク(削る)」に長けた人のことであり、その人にあっては殺されない者はいない。

(4−2)もし刑罰をして人を殺そうとするのであれば、それは「殺」をして悪を止めるようとすることといえよう。これは「司殺」に代わって殺人を行うものである。

(4−3)譬えば自分が「タク(どのような時に、どのような人を殺すか)」に詳しくないとしても、「大匠のタク」に代わって人を殺すとしたとする。

(4−4)「タク」には「タク」の奥深い働きがあるのであり、「大匠」はそれを知っているが、それに代わって「殺」を行う人は、その全てを知り得ているのではない。

(4−5)そうであるのに「大匠」に代わって人を殺そうとすると「その手をして傷つけることのないことは希(まれ)なのである」ということになる。

(4−6)この章では「殺」をして人を治めることについて述べられている。それをして人を教化し、天の「理」を明らかに示そうとすることについて述べている。

(4−7)しかし、そうしたことはついには人をして人の心を失わせることになる。

(4−8)重要なことは「殺」を使うことなく悪を為さないようにさせることであり、それはいたずらに「殺」を用いることではない。

(4−9)死を畏れることを知らないというのは、死は自然なことなので本来的には畏れるようなものではないからである。

(4−10)そうであるのに有為をして刑罰を行って民を従わせても意味はばい。

(4−11)そうであるから世を整えるのには刑罰をもってするのではなく、それは礼をして世を治めるべきなのである。民を上とする聖人の統治とは、そういったことなのである。


【補注】ここでは「是謂代大匠タク(これを大匠のタクと謂う)」とあり「謂」が入っている。テキストによれば「謂」のないものも多い。ない場合には「これを大匠に代わりてタクする(削る)なり」と読む。「タク」は「削る」という意味の語であるが、これは動詞としても人名としても良かろう。また「大匠」を「大工の棟梁」として人が刑罰によってでも殺人を行おうとするのは、専ら「殺」を司る「殺司=大匠」に代わって大工仕事を行うようなものとするものもある。宋常星は大工だけではなく「大匠」を広く「大師匠(グランド/マスター)」の意としている。


〈奥義伝開〉

この章では二つのエピソードを上げて「死」と「殺」のことが論じられている。老子は「死」は自然なことであるから人々は本来的にそれを畏れることはないと考える。人がそれを畏れるようになったのは有為による「死」つまり殺人が行われるようになってからとする。そして為政者は人々の畏れる「殺人」を利用して統治をしようとするようになった。それは現代まで続いており戦争や刑罰による「死」の恐怖が抑圧的な支配を可能としている。またそれは「死後の世界」の迷信を生んで宗教の迷妄的世界をも構築することになった。

二つ目のエピソードには「司殺」という鬼神のようなものが出ている。あらゆるものの「死」を司っているとされている。こうした鬼神は古代中国では広く信じられており墨子もそうしたものがあるとしている。老子の思想そのものからはやや逸脱するようにも思うが、老子は「司殺」を「道」に等しい象徴的なものと捉えて「司殺」が行う「殺」は無為であるが、それに代わって人が「殺」を行うのは有為によるもので好ましくないとする。自然の働きに「殺」のあることは『陰符経』にも示されており、陰陽と同じく「殺」と「生」があるとしている。こうしたケースは「司殺」によるものである。

前段のエピソードと後段のそれを合わせると「司殺」の行う「殺」は自然な「死」であり、「大匠」の行う「殺」は意図した有為による「殺」ということになる。これら前後と用語の統一が見られないのは当時よく言われていた話をあげているためであろう。


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