道徳武芸研究 「撲面掌」考
道徳武芸研究 「撲面掌」考
呉家太極拳には「撲面掌」という技がある。これは転身擺蓮(双擺蓮)の前提となる動きを指していうのであるが、独立した「技」として捉えているのは呉家だけである。加えて呉家では慢架でも快架でも「撲面掌」を入れているほど重視もしている。楊家の老架では「撲面掌」と確かに認められる左掌で打つ動作があり、新架ではやや曖昧になってはいるが、やはり左掌で打つような動きが残されている。一方、陳家や武家、孫家では、これはひとつの「技」ではなく擺蓮への準備動作、あるいは連絡動作と見なされていて、あえて左掌で打つような動きは見られない。転身をして蹴りを放つ転身擺蓮に「撲面掌」を入れると、先ずは左掌で相手の顔面を打って前方の相手を制しておいて、後方あるいは左右に居る相手を蹴るという流れになる。しかし、ただ左右や後方に居る相手を攻撃するということだけであれば、あえて「撲面掌」を考える必要はない。また撲面掌そのものは太極拳以外に多くの拳術に見ることができる。あるいは「迎面掌」という名称であることもある。柔術でも「目眩まし」として同様の技が使われている。
ここであえて太極拳における「撲面掌」に注目したいのは、呉家において見出された「撲面掌」は古代の「角力(かくりき)」の幻影ではなかったかと考えるからである。『漢書』(哀帝記)には「手搏(しゅばく)は戦いである。角力は遊戯である」とある。つまり手搏は徒手での戦いのことで、角力は祭祀や遊戯として行われるものであったのである。『礼記』には十月の始めに天子は諸将に命じて兵法、弓術、角力を行わしめよ、と記す。こうした時を決めているのは儀礼的な要素があるためであり、軍隊で行われる角力はまた戦闘のための基礎体力を養うものでもあった。
私が太極拳に、こうした古代の角力の影を見るのは先ず第一に掌を使うことがひじょうに多いことがある。打撃の威力だけを考えるのであれば多くの少林拳がそうであるように拳が多用されなければ成らない。また両手で推す動作も顕著に認められる。攬雀尾の按は下に押さえるところで、相手の攻撃を落とす動きは終わっているのであるが、これにさらに両掌で推す動きが加えられている。また如封似閉も腕を交差することで相手の腕の関節が極められ、技としては終わっているのであるが、ここでも両掌で推す動きが付加されている。このような両掌で推す技は相手に大きなダメージを与えないための工夫であり「角力」では張り手(掌打)や突き推し(推)が主として使われていたことを想像させる。ちなみに現在の相撲でも拳で打つことは禁止されている。
太極拳の「撲面掌」のような古代「角力」をうかがわせるものに形意拳の三体式がある。これは右拳で相手の攻撃を受けて、左掌で打つ動作となっている(反対もある)が実は、これは形意拳の秘伝である「鷹捉」と称される動作で、掌は打つのではなく、相手の肩のあたりに当てて、右手と共に相手を引き倒す技とされている。太極拳では攬雀尾の「ホウ」から「リ」の流れと同じで、形意拳の理論では「起」と「落」という名称になる。
この三体式の動きに前に出る継ぎ足(跟歩)を加えたのが五行拳の劈拳である。これは「鷹捉」に「撲面掌」を加えた動作として解することができよう。ただ一部には掌で打つのが「撲面掌」であるという教えが伝わっていないと、掌で打つより拳で打った方が威力があるであろうと考えて山西派などでは拳に変えている。これは三体式と五行拳の差別化ということから考案されたものかもしれないが、逆に三体式と五行拳の連関性の観点からすれば、以下に述べる老三拳のこともあり、必ずしも妥当とはいえまい。
形意拳には、その古形として老三拳なるものがあったとされている。そして、それは「践、讃、裹」であると伝えられている。つまり「践=歩法」「讃=集中」「裹=ねじり」なのであるが、これらは全て三体式に含まれている。ただ「裹」には「包む」という意味もあるので、これを「顔を包む」と解すれば三体式には「撲面掌」の用法もあったと理解することもできる。おそらく三体式には「鷹捉」と「撲面掌」の二つの意味があったのであろう。それが「撲面掌」を強調するものとして劈拳が考案されて、他の「讃、崩、横」といった五行拳も全て「鷹捉」を導入部とするという理論が確立されたものと思われる。つまり「鷹捉」で相手の動きを制してから顔面、顎への掌打(劈拳)、突き上げ(讃拳)、中段突き(崩拳)、斜め上段突き(砲拳)、斜め中段突き(横拳)につながるようになっているわけである。このように形意拳では五行拳といった拳術的な展開の基礎に古代の「角力」の伝統を引く三体式であるのである。
呉家太極拳は全佑、呉鑑泉によって編まれたのであるが、彼ら満州族は伝統として「相撲」を伝えていた。清朝では宮廷行事として「相撲」が行われていたし、護衛官として善騎射侍衛(騎射に長じた護衛官)の他に善撲侍衛も居た。加えて300人をようする善撲営があり切磋琢磨していたのである。中国周辺の「相撲」の伝統は蒙古族がよく知られているし、チベット族にもある。また日本でも「相撲」は盛んである。おそらく太古には「角力」があり、後に「拳術(手搏)」が考案されたものと思われる。それは掌で打ったり、推したりすることは誰にでもできるが、拳で打つことは適切な握り方や打ち方を知らないと使えないからである。
太極拳、形意拳ともに「角力」の伝統を色濃く残しているのであるが、次第に「拳術」として変容されつつあった。そうした中にあって「相撲」の伝統を有する満州族である全佑や呉鑑泉は古代の「角力」がその根底にあることに気づいたものと思われる。おそらく「角力」で用いられていた掌打は日本の相撲で「張り手」として残されているものに近いのではなかろうか。そうした類似性からすれば太極拳の掌打の威力を得ようとするのであれば、相撲で行われている柱を打つ「鉄砲」のような稽古は有効であろう。それは形意拳においても同じである。太極拳や形意拳のベースとなっているのは、中国北派の拳術でよく見られるような鞭のような打ち方ではなく、全身の勢を使うような打撃である。おもしろいことに相撲の地方巡業では仮設の建物に「鉄砲禁止」の張り紙があるという。それは力士の鉄砲で建物がダメージを受けるからなのであるが、C.W.ニコルの『バーナード・リーチの日時計』では王樹金が民家の柱を拳で軽く打つと家が揺れたと記されている。このことは形意拳でも相撲と同じような打ち方をしていることを示していると読むことができる。
また太極拳と「相撲」の関係は推手が相対(あいたい 完全に向かい合っている)であることでも分かる。しかし「拳術」的な解釈を取る陳家では、それが半身に近い形になっている。また推手の競技試合が相撲のような押し合いになるのも太極拳の根底に「角力」があるからに他なるまい。台湾の公園では丸い円の中で押し合いをしているグループもあって、まさに日本の相撲そのものであった。日本で太極拳が突出して受け入れられているのも、それが相撲に近いものであるからなのかもしれない。つまり太極拳の根底をなしている「角力」は現代日本の相撲に近いものであったのかもしれない(掌打と推し)。そうした太極拳の奥底にある「角力」を呉家の人たちも「撲面掌」に見ていたのではなかろうか。