道徳武芸研究 『兵法家伝書』に見える「無刀」とは(下)
道徳武芸研究 『兵法家伝書』に見える「無刀」とは(下)
『兵法家伝書』「無刀之巻」の後半は「無刀」が太刀取りではないということから更に進んで具体的なことが説かれている。
四、無刀とは、取る用にてもなし、人を斬らんにてもなし。
「無刀というのは相手の太刀を取ろうということでもないし、相手を斬ることを目的とするものでもない」とあり、相手を斬ることも「目的」ではないとする。
敵からぜひ斬らんとせば、取るべきなり。
「無刀」はまた太刀を取らないということに固執するものではなく「敵がどうしても斬ろうとして来たならば、その太刀を取るべきであろう」とする。要するに「無刀」は入身であって相手の太刀をどうするかはケース・バイ・ケースであるということである。
取る事を始めより本意とはせざるなり。
ここで一応の総括を「相手の太刀を取ることを始めから目的としてるのではない、ということである」と提示する。
よくつもりを心得んが為なり。
太刀を取ることが目的ではないならば「無刀」とは何を目的としているのか。それは「よく間合いを心得るためである」とする。つまり「無刀」という概念を意識することで「積り=間合い」を正確に把握することができるようになるというのである。
敵と我が身の間(ま)、何程(なにほど)あれば、太刀が当らぬと云ふ事をつもり知るなり。
相手と自分の間合いを知るということで「敵と我が身の距離がどれくらいあれば、太刀が当たらないかということの間合いを知ることが『無刀』ということである」とする。
当たらぬつもりをよく知れば、敵の打つ太刀に恐れず、身に当たる時は、当たる分別の働きあり。
間合いをよく知ることができればとして「相手の太刀が当たらない間合いをよく分かっていれば、相手の持っている太刀を恐れることもない。また太刀が当たる間合いであれば、それはそれで対処する方法がある」ということになる。
無刀は、刀の我が身に当たらざる程にては取る事ならぬなり。
「無刀」では太刀を取ることもあるのであるが、その間合いは「『無刀』を使うには、相手の刀(は)が自分に当たらない間合いにあれば、その太刀を取ることはできないものである」とする。
太刀の我が身に当たる座(ざ)にて取るなり。
ここでは「無刀」のひとつの形として太刀取りが説明されているが、その間合いとは「相手の太刀が自分に当たるくらいのところにあれば、それを取ることができる」というものである。「座」は上座、下座などの座る位置関係のこと。最後に出てくる「場の位」も同じである。
斬られて取るべし。
これは先の一節と同じであるが、最後に「相手に斬られるくらいの間合いで、その太刀は取るべきである」と、その間合いを強調している。
五、無刀は、人には刀を持たせ、我は手を道具にして仕相(しあい)するつもりなり。
ここでは更に具体的な「無刀」の説明がなされているのであるが「無刀とは、相手が太刀を持っていて、こちらは手を武器として試合をするようなものである」とする。武器対徒手の場面が「無刀」の基本となるのである。
しかれば刀は長く、手は短かし。
「無刀」の間合いで想定されているのは「そうである時、相手の持つ太刀は長いし、自分の手は短いことになる」というもので、相手が有利な立場にあることになる。
敵の身近く寄りて、斬らるる程にあらずば、成るまじきなり。
不利な状況で「無刀」を成功させるには「相手の身の近くに寄って行って(入身をして)、相手が十分に斬ることのできる間合いにまで入らなければ、無刀を使うことはできはしまい」とあり、ここで「入身」が説かれる。
敵の太刀と我が手と仕相(しあ)ふ分別すべきにや。
これは「敵の太刀に、我が手をして立ち向かわせるべきであろうか」ということである。手を太刀のように使うというのは、これが不可能であることは明らかである。
さあれば、敵の刀は我が身より外へ行き越して、我は敵の太刀の柄(つか)の下になりて、開きて太刀を抑ふべき心あてなるべきにや。
「太刀」と「手」は等しく使うことはできない。そうであるから相手の「太刀」を「手」で受け止めるようなことはできないのであり「そうであるならば、相手の斬ってくる太刀のラインから外れて、それをやり過ごすのである。自分は相手の構えている太刀の柄の下にまで進んで(斬って来るのを誘い、相手が斬って来たら)転身をする。それは相手の太刀を抑えるような感じで行う」となるのであるが、これは合気道の太刀取りと同じである。「柄の下になりて」とあるのは、まさに実戦的な教えであり、上段に構えた相手に真っ直ぐに入って行って斬るのを誘うわけである。相手はそれにつられて斬って来るので、自分はその太刀筋を外へと転身をしながら外して、相手の横に入る。合気道では更に相手の太刀の柄を掴んで投げるが、「無刀」にあっては太刀を抑えるのは「心あて=感じ」であって、実際に相手に抑えることは必ずしも目的とはしない。
時にあたって、一様(いちよう)に固まるべからず。
「無刀」で重要なことは、それを固定した「技」としないことであり「時に応じて『無刀』の形は変化をするのであって、ひとつの固定した技としてはならない」のである。
いづれにても、身に寄り添はずば、取られまじきなり。
これが「無刀」の極意というべき教えであろうが「どのような形になるにしても、相手と離れてしまえば、無刀を使うことはできないのである」とする。これは新陰流では「転(まろばし)」という教えで、転身をして攻撃をかわすのであるが、その時相手との関係性が維持されなければならない。これは「合気」ということでもある。
六、無刀は、当流(とうりゅう)に、これを專一の秘事とするなり。
最後は無刀が新陰流で最も重要な概念であることが説明される。「無刀とは、我が流儀では、最も重要な秘事である」ということである。剣術も「無刀」の間合いを根本に持っているのである。
身構(みがまえ)、太刀構、場の位(くらい)、遠近、動き、働き、付け、懸け、表裏、悉皆(しっかい)無刀のつもりより出る故に、これ簡要の眼(まなこ)なり。
最後に殺人刀にある実際の剣術の秘訣も全て「無刀」と同じであることが述べられる。「動き」は「身」の動きで、「働き」は「技」の使い方のこと、「付け」は「目付け」、表裏は前に「出る入身」と「引く入身」である。これらが「全て無刀から出ていということが、重要な観点である」と結んでいる。「無刀」は剣術から独立したものではなく、剣による攻防の中から導き出されたこうしたもので、剣術の秘訣は全て「無刀」と一致すると指摘している。
以上『兵法家伝書』の「無刀之巻」を見てきたが、繰り返して「無刀」が太刀取りに限定されないことを述べているのは当時、太刀取りがあったからであろう。しかし「無刀」は「間合い」のことであり、それは「呼吸」のことでもある。新陰流において「無刀」が考えられるようになったのは剣術において「転」が見出されていたからである。基本的には「無刀」の間合いは「転」と同じである。
植芝盛平は武田惣角から新陰流の免許状を得ており、さらに弟子の下条小三郎について新陰流を研究していた。こうしたことからして合気道の「合気」「引力」「呼吸力」などは全て「無刀」の表現であることが推測される。
中国では入身は七星歩であるとか玉環歩であるとか称せられて重視されて来たが、入新陰流に似た体系を築いていたのが八卦拳である。八卦拳は新陰流の体系でいうなら羅漢拳が「殺人刀」であり八卦掌が「活人剣=無刀」になる。流布した八卦掌の「使い方が分からない」とされたのは、それが入身の練法であったからに他ならない。