丹道逍遥 仙道の「最高峰」文始派について
丹道逍遥 仙道の「最高峰」文始派について
台湾の仙道研究家で「道蔵精華」シリーズで多くの文献資料を出版している蕭天石は、文始派を最高レベルとしている(蕭天石には著作も多くある。翻訳されているものとしては『道家養生学概要』が仙学研究舎のサイトで読むことができる)。一般に仙道として広く知られているのは練丹派(重陽派 王重陽により知られるようになった)であるが、レベルが高いのは文始派とする説が多くある。なぜ文始派が「最高峰」とされているのかについては、それが道家の正宗つまり正伝を受け継ぐものであるからであり、道家はまた太古の瞑想・鎮魂法である「心斎」を思想としてまとめ得た老子を始祖としている(ここでは太古の瞑想・鎮魂法をいう適当な名称がないので『荘子』にある心斎を「心斎」として用いている)。
さてこの「心斎」であるが、老子が周から西方への旅に出るべく函谷関を過ぎようとした時、そこの関令(長官)である尹喜なる人物に教えを授けてくれることを乞われたため『老子』を記して与えた。ここに道家の思想が示されたのである。尹はこれにより『文始真経』を著したが、これからは仙道の文始派が興った。西に行った老子はブッダとなって仏教を起こした(老子化胡説)。その教えのエッセンスは禅宗として中国に伝えられ「心斎」は仏教においては禅宗となったのである。また老子は中国を出る前に孔子にも道家の教えを授けている(『史記』)。こうして「心斎」は坐忘として儒教に入ることになる。以上は「伝説」を組み合わせたものであるが、儒教の坐忘、仏教の禅宗、道教の文始派は共に「心斎」の正伝を受け継ぐとする考え方であり、これにより後には三宗合一が説かれることになる。
ちなみに仙道で現在、中心となっているのは冒頭でも触れたように練丹派である。日本でもよく知られている小周天などいろいろな瞑想テクニックを用いるのが、この派である。これに対して文始派は静かにしているだけで全く瞑想の技法を用いることがない。禅宗でいう「只管打坐」なのである。もちろん『老子』にも瞑想については、その心境は記されているが、テクニックに関しては一切、記述がない。これはただ無為であることを良しとするためである。こうした瞑想法をここでは「心斎」と称しているのであるが、これはどこに由来するかといえば、それは服気によるものと思われる。服気はいうならば呼吸法である。これについては『抱朴子』に「神亀服気」のことが見えている。穴に落ちた子供が亀の呼吸を真似ることで長期にわたって飢えを感じることもなく生き延びることができた、とする話である。これはできるだけ息をしないように務めることで健康、長寿を得られるとする考え方である。できるだけ息をしないためには動かないことが第一である。そうしたところから『荘子』で枯れ木のようにとされるような瞑想「心斎」が生まれ、道家で修されていたものと思われる。ちなみに道家ではあえて息をしないということはなく、ただ自然に静かにしていれば良いと考える。
ここで述べたように「心斎」は道教、儒教や中国仏教の中核をなすものである。冒頭に述べたのは「伝説」であるが、歴史的には中国に入って来た仏教は「心斎」と融合して禅宗となるのであり、儒教は宋の時代に改めて「心斎」を取り入れて静坐を重んじるようになる。朱子には「半日静坐、半日読書」の教えもある。「心斎」のことを荘子は「槁木死灰(こうぼくしかい)」と形容している。枯れた木のように動くことなく、冷えた灰のように静やかであるということである。これは禅宗でも坐禅の深い境地を示す語といわれている。一方、老子は「道」を表す言葉として「樸(あらき)」をよく使っている。どちらも「木」をイメージしているが老子は「切り出したままの丸太」で、荘子は「枯れた木」で「心斎」を象徴する。あらゆるものに変化、生々するということでは老子の「樸」の方が適切であろう。荘子の「槁木死灰」は「静」を強調する余りに文学的な装飾が過ぎるようである。こうした傾向は禅宗にも顕著に見られる。太古の鎮魂法を受け継ぐ「心斎」は仙道では文始派として継承された。それはあらゆる「装飾」を拒否する人たちによって継承されて行ったために、誰がそれを受け継いでいるのかさえも判然とはしない。ために隠仙派とも称される。一説にはその伝授は天授によって受け継がれているとも聞く。