宋常星『太上道徳経講義』第七十二章
宋常星『太上道徳経講義』第七十二章
(1)古くから天の道と人の心は一つであるとされている。
(2)天の道は虚を貴び、人心は謙を貴ぶものである。天の道が虚でなければ、万物を容れることはできないし、人心が謙でなければ己を制して行動することはできなくなる。
(3)これを「竅」とひとつになるという。そうなれば不都合なことの生じることはない。
(4)もし「竅」とひとつになることがなければ、自分が住んでいるところを狭いなどと不満に思うことはないし、生きていて厭うべきことに出会うこともないであろう。
(5)知識を得ることで、理解をすることができる。愛することで、大切にすることができる。
(6)謙虚な心がなければ、人智を越えたところで災いを受けることになろう。
(7)聖人がどのような行動をとっているかを知ることができれば、必ずあらゆるものを超越した大いなる威の極み(つまり道であり天の理)がどのようなものであるか、が分かることであろう。ここで述べられているのはそのことである。そうした威を畏れるのは全ての人であり、それは後世の人にまで及ぶものである。どんな人でも、その威を畏れない人は居ない。
(8)心により行動を制することができていれば、あらゆる行為が妥当なものとなる。つまり聖人はそうしたことのあり方を示しているのである。
【補注】「竅」は「穴」のことである。これは第一章に出てくる。有欲をして見ることのできるのは「竅」であり、無欲であれば「妙」を知ることができるとある。またこれらは共に「玄」より発するものであるとされている。また同章には「衆妙の門」という言い方も見えている。「門」と「穴」は共通するので「竅」は「衆妙の門」ということができるであろう。これは「玄にして玄」なるところとあるので、いうならば「妙」よりも深いレベルで感得されるものと考えられる。つまり「有欲」意図的な修行をすれば、全くのあるがままで見出すことのできる「妙」よりも更に深い境地を知ることができるわけである。これは実際の修行からすればその通りと言えるであろう。本来は「無欲」を尊ぶのが道家であるが実際は「有欲」をして意図的な修行をしなければならない。このことを道家では「逆修」と称する。「逆」をして「順」を知るということである。
1、民が「威」を畏れることがない。それは大いなる「威」が民を支配しているからである。
(1−1)禍福をすみやかにもたらすのは天の大いなる威である。天の大いなる威を畏れる。
(1−2)それは理に違うことではない。それは義にもとることではない。天の威を畏れて、自らの身を謹むのである。
(1−3)「民」とは人のことである。人が天の理を畏怖しないのは、私欲が内にあるからである。そうなれば、天の理に反発して、自らの生を傷つけ、物をも壊すようになる。こうした人は、あらゆることにおいて自分のせいで自らが傷ついていることを知らない。
(1−4)威が及ぶのは風や火のように速い。その影響は形と影のように離れることがない。ここで述べられている「民が『威』を畏れることがない。それは大いなる『威』が民を支配しているからである」とはこういったことになる。
2、住んでいるところは狭く無く、
(2−1)天の威は畏れられるべきものであるというだけではなく、その威のあるところは限定されない。
(2−2)「狭い」とは限定されているという意味である。
(2−3)その居るところが狭いというのは、心のあり方において一方に偏るということである。そうなれば義や理の全般を見渡すことはできなくなる。
(2−4)いろいろなことで小さなことに拘泥してしまうようになる。そうなれば時々に応じての大いなる働きを知ることはできなくなる。近いところは分かっているが、遠いところを知ることはなくなってしまうのである。
(2−5)自分だけを見て、他人に気遣いをしないようになるのである。安易に溺れて、将来の危機を察することできなくなる。こうしたことの全ては知見の狭いことによっている。
(2−6)もし、そうしたところに居ることがなければ広く見ようとする気持ちを持つことができるであろう。理があらゆるところに通じていることが分かるであろう。自分だけではなく理はどこにも適切に用いられているのであり、そうしたことを「住んでいるところは狭く無く」としているのである。
3、生活するのに嫌とは思わない。
(3−1)住んでいるところが狭いということがないばかりではなく、またその生活も不満を覚えないということである。
(3−2)「嫌」とは「不満である」ということである。今の生活を捨てたくなるということである。(3−3)「性(本来の人の心のあり方)」は生きたいと思うものであり、それが人の理である。そうした「性」にもとらないのが、生きることの理を厭わないということである。
(3−4)命は生活の源である。命を失うのは嫌なことであり、それを失わせるような生活は全くもって嫌われるものである。
(3−5)およそ身を立てるのに謹むことがなければ行動は適切に制御されることがない。軽言、妄動をしてしまうことになる。そうしたことは生きることを嫌うことに繋がるものである。
(3−6)よくそうしたことがなければ、内には私欲をしてその心を害することはないし、外には不適切な行為をしてしまうこともない。
(3−7)そうでなければ生るということの理にも違がうものとなろうし、生き方も考慮されることがないということになるであろう。そうしたことを「生活するのに嫌とは思わない」としている。
【補注】ここでは「住んでいるところを狭く感じることがなければ、生活するのに嫌とは思わない」ということを述べている。同じ住居空間でも「狭い」と感じる人も居るであろうし、そう感じない人も居よう。そして少なくとも「狭い」と感じる人にとっては生活は決して快適とは思われない、ということを老子は指摘している。外的な条件は同じでも人の心のあり方によって受け取り方は全く違って来ることを言っているわけである。これは始めの「威」も同様である。領主なら領主が「威」を以て民に命ずるとして、その「威」を畏れるのは普通であるが、領主より偉大な神を信じていれば神の「威」は畏れても領主の「威」は畏れないようになる。こうしたことがキリスト信仰者の住む地域に見られたわけである。おそらく豊臣秀吉などは、かつての一向一揆などの「悪夢」とキリスト教が二重写しになって感じられたのではなかろうか。それはともかく政治の仕組みが変わらなくても、人の心が変化することで「威=統治権」の受け取り方には大きな違いが生まれるのである。
4、ただ嫌なことがなければ、嫌と感じることはないわけである。
(4ー1)これは「先」を認めれが「後」になるということであり、これまでの内容をまとめるフレーズである。
(4−2)「先」に嫌ではないとある。これは自分で嫌と思わないということで、そうなると嫌という思いが出て来なくなる、ということである。つまりは嫌がらないという結果になるわけである。
(4−3)もし、人が心をして行いを制しようとしなければ、それは理に外れることになる。それは義にもとるばかりではなく、自暴自棄に安んじることになってしまう。
(4−4)そうなれば自己をも損なうことになってしまうであろう。天に捨てられることになってしまうであろう。そうしたことを「ただ嫌なことがなければ、嫌と感じることはないわけである」としている。
【補注】宋常星は老子が単に「AであればBとなる」という論理的な展開をいうだけではなく、「嫌なこと」を天の理に外れる行為として、それがなければ「天の理」に外れて「嫌」と感じることもなくなると解釈している。これは、この一文が前のまとめの位置にあることを考えれば、そうした特定の事例を述べていると読むのは妥当な解釈とは言えない。
5、そうであるから聖人とは「自(おの)ずから知り、自ずからは見ていない。(という人なのである)
(5−1)「威を畏れる」「狭いと思わない」「嫌うことがない」という三つは全てただ自然であれば、そうしたことに思い至るものである。自然そのままで、その状況を受け入れることを言っている。
(5−2)普通の人は大体において物事をいい加減に行っており、それぞれのことを深く考えることがない。しかし聖人は、自ずから知ってはいるものの自ずからは見ることがないのである。
(5−3)自ずからではなく意図を持って内面を深く見ることで、自然にあらゆるところを見通し得ているわけである。
(5−4)あらゆることを知っていて、その全てが正しい理解を得ている。それは、すべて内的に自己を見つめることで知り得ているのである。
(5−5)隠れていて外には兆ししか現れていないものを知ろうとしても知ることはできない。自己の中に隠れていていて人を惑わすものがあったとしても、それを知ることはできない。
(5−6)しかし隠れた徳の光は、それは隠しきれないので自然に外に現れてしまうものである(そのように知の働きも内的にそれを養えば自ずから外の世界に及んで、それを正しく知ることができるようになる)。これが「自ずからは見ていない」ということである。そうしたことを「自ずから知り、自ずからは見ていない」としている。
【補注】宋常星は「見る」は内視であり静坐のこととする。そしれは意図して修行されなければならない。しかし、そうすれば外の世界への認知は自ずから深いものが偉えるとするわけである。これは先にもあった修行の考え方と同じである。しかし、ここも次の【補注】で述べるように論理的な展開をいうものと理解されるべきであろう。
6、自ずから愛しても、自ずからには貴ばない」という人なのである。
(6−1)聖人は無為をして見ることはないというだけではなく、無為の愛にしていても、それを無為に貴ぶことはないのである。
(6−2)有為をして「性」の修行をして、無為の「命」に及ぶのである。
(6−3)そしてこれらの全てはその身を保つことに帰結する。
(6−4)意図的に機を伺って、無為に行動するべき時を知るのである。こうしたことの全てはその身を保つことにある。
(6−5)無為の「愛」はあらゆるところに巡っているものであり、人は我が身を「愛」することを第一とする。
(6−6)それは無為をして愛するのであるが、この「愛」するとは我が身を大切なものと思うことである。
(6−7)そのためには深く謙譲の思いを致さなければならない。そうすることで命を保つことを第一とすることができるのである。謙譲とは個々人の心の働きを制御することである。
(6−8)たとえ道の徳に常に注意して行動していたとしても、時にはそれが損なわれてしまうこともあろう。そうであるから無為であることを貴ぶべきなのであり、そうでないことを貴しとしてはならないのである。こうしたことを「自ずから愛して、自ずからには貴ばない」としている。
【補注】ここで聖人が聖人であるのは、として述べられているのは「知」と「見」、そして「愛」と「貴」の違いである。つまり「知」とは「分析」によって知ることであるのに対して「見」は「全体」をイメージとして眺めることである。そうであるから「知」の知覚と「見」の知覚を等しいものとすることはできないわけである。
また「愛」は「平等」の関係においてなされる。古代中国では墨子が兼愛を説いていたが、それは儒教のように人間関係によって親しみやすさに優劣を付けるべきではないとして特に「愛」を説いたのである。一方「貴」ぶのは相手を上に見てなされる。つまり「上下」関係がそこにはあるのである。そうであるから平等な「愛」と、上下の関係の「貴」は同時には存在し得ないわけである。
7、つまり「あれが無ければ、これがある」ということである。
(7−1)「あれ」とは自然に見て、自然に貴ぶということであり、そうしたことは「無」い、あり得ないわけである。また「これ」は自然に知って、自然に愛するということで、これはそのまま「ある」わけである。
(7−2)つまり「あれ」は無い、「あれ」はあり得ないということである。
(7−3)また「これ」があるというのは、行われるべきことが行われているべきである、ということである。よく「あれ(内面を見たり、命を貴ぶこと)」を意図的に行ったならば、自ずから聡明を得て他人を騙すこともなくなるであろう。他人に対して傲慢であることもなくなるであろう(そうなれば恨みをかって命の危険に及ぶこともなくなるであろう)。
(7−4)よく「これ」を行うことができていれば、少しも理に違うことはない。全ての行為は一なる心によって明らかに為されるものとなる。
(7−5)そうなれば全身は安らかとなる。これら全ては自己を重んじることになる。
(7−6)真実の実践を知り、真実の愛を愛することができるようになる。
(7−7)ただこれは自然に見ていれば知ることのできるものではない。自然にこれを愛していれば、自らを真に貴ぶことにはなるのではない。
(7−8)聖人はただ理のままにある。それを「あれが無ければ、これがある」としている。
(7−9)第七十二章はこの語をして終わっている。よくこのことの意味が分かれば、自然に愛し、自然に知ることができるであろう。そうなれば自然に嫌なことはなくなり、自然に狭いと感じること(不快に感じること)もなくなるであろう。天の威を畏れて大いなるその威(天の理)の至ることのないのを知ることであろう。こうした理は全てのことに通じているのである。
〈奥義伝開〉
冒頭で「民」と「威」として述べられているのは、儒教でいう「天」のことである。君主は「天」から天命を受けて統治をする。しかし統治がうまく行かなくなると天命を失ったと見なされる。そうなると君主は革命によって変えられる。ここに「民」は君主の「威」を畏れることはないが、天の「大いなる威」を畏れているわけである。
こうしたことを老子は第十六章では「王とは天である。天とは道である」として述べている。また第二十五章では「道は大いなるものである。天も大いなるものである。地も大いなるものである。王もまた大いなるものである」とする。つまり「道」でも「天(命)」でも君主とはそうしたあるべきを行う存在でなければならない、ということである。
こうした視点で以下を読むと「住んでいるとことが狭いと感じるのは、生活を嫌と感じるからである」とあるのも「暮らしが苦しいと、君主の統治を受け入れがたくなる」ということになる。そして、それは「嫌になるのは嫌になる原因があるからである」と総括される。また最後には「良い統治と悪い統治は共にあることはできない」という結論になる。
悪い統治、つまり儒教でいえば天命を失った君主による統治は排除されなければならない。こうしたことを判断するにはどうしたら良いのか。それは「知ー見」「愛ー貴」の違いを知ることで得られる。つまり「理知をして生じていることの細部までを論理的に知ること(知)」が大切で「全体的なイメージで見る(見)」のは好ましくないわけである。また「平等の関係で人々は互いを愛おしむべきであり(愛)」けっして「上下の関係で特定の人を貴ぶ(貴)」べきではないということである。「知」と「見」あるいは「愛」と「貴」は似ているようであるが実際には全く違うものであることを老子は教えている。
あらゆる政治システムは状況に応じて変更されるべきであることは孟子が特に強調している。老子もそうしたことを視野に入れていたようである。