宋常星『太上道徳経講義』第七十章

 宋常星『太上道徳経講義』第七十章

(1)聖人の「性(本来的な心の働き)」は天と等しいものとされていて、内的な思いと外的な行いはひとつになっていて乖離はない。

(2)聖人の「心」は道と等しい。そうであるから動静はひとつである。動静がひとつであるというのは、心の本源を得ているからである。内外がひとつであるというのは、その「性」の本体を得ているからである。「性」の本体とは、つまりは「無私の至理」である。世の人は自分だけの思いで行動するので、その良し悪しがよく判断できていない。

(3)「心」の本源は、つまり「無私の大道」である。「無心の大道」である。世の人の心は私意をもって動いて、それによって行動をしている。老子は、そうでなければ天下を正しく知ることもできないし、正しく行うこともできない、と述べられているが、それは意図的に道を知ることはできないし、行うことも不可能であるということである。

(4)老子は、天下の人の心には正邪があるので、それを通して得た見聞には偏りが生まれているとする。人は欲望に溺れてしまうと、聖人がどのようにして知を得ているのかを理解することができない。聖人は行うべきを行うのであり、これをよく感得することで道と一体となれるのである。


1、自分は「(道を)知ることは全く簡単であるし、(徳を)行うことも全く簡単である。(と言おう)

(1−1)老子の言うことには、すべからく「道」を見ることができ、一語一語に「理」が通っている。それは「道」や「理」が心に満ちており、それが口をついて出てきているからである。そうであるから全ての教えは「理」のままにあるのである。

(1−2)また老子のあらゆる行いも、全て「道」そのものである。これは何も特異なことではない。道を知ることは難しくなく、道を行うのは容易であるというのは、特におかしな話しではあるまい。

(1−3)道を行うのが難しいというのは、心の中に自分で作り出した理があるからであるとされている。そうであるから、そうした有為のないところでは道を知ることは簡単であり、それを行うこともまた容易なのである。

(1ー4)そうしたことを「自分は『(道を)知ることは全く簡単であるし、(徳を)行うことも全く簡単である』と言おう」としている。


【補注】ここでは「道」と「徳」とにしたが、これらは本質においては同じであるから共に「道」とすることもできる。以下、同様に「徳」は「道」としても良い。「と言おう」は以下の四つの老子の語り口すべてに掛かっている。


2、天下にあって(道は)よく知ることはできないし、よく(徳は)行い得るものでもない。

(2−1)本来的に道を知ることは容易であるとされている。ただ、それは有為をして知ることのできるものなどはない、ということが前提としてある。

(2−1)道は人智の及ばないところにある、ということである。人はあまりに平凡であれば、かえって奇異なものを求めてしまうものである。ただ真っ直ぐであれば、かえって曲がっていることを求めたくなる。当然のことではあるが、いい加減であれば、深く見極めることはできない。つまり知ることはできないわけである。

(2−3)本来、道を行うことは簡単である。それは行うべきことがない、からである。行いは人の私意で為されるべきではない。

(2−4)明らかなことは、意図して行動していると、やればやるほど道が見えなくなるということである。明らかなことは、道を極めようとすればするほど、道は分からなくなる、ということである。

(2−5)こうしたことはよくあるが、おおよそはここまで言及することはないであろう。つまりは、有為をして行うべきことは何もないのである。

(2−6)私意による思い込みがあれば他人の言うことを聞いていても、聞いていないかのようである。道に達していない人の言うことは、つまりは私意を述べているだけであるから、それをそのままに受け取ることはできない。

(2−7)行いにしても、それをそのままに受け取ることはできていない。つまり道徳によらない行いであるから、それを受け入れることが難しいのである。聞くにしても、そのままに聞くことはできい。

(2−8)そうであるから「天下にあって(道は)よく知ることのできることはないし、よ(徳は)く行い得るものもない」としている。


3、言うことには『宗』となること(道)がある。物事には『君』となるもの(徳)がある。

(3−1)始まりがあり、根底となることがあるのを「宗」があるとしている。これがあって全てが動いている。

(3−2)あらゆることにあって尊ばれていることが「君」なるものである。

(3−3)老子の言うことは全く間違いがない。天地の至理に通じている。古今の大道そのままである。簡単であり平易であり、本質を備えている。

(3−4)こうしたことには「宗=道」があるわけである。老子の行う事には誤りはない。太古まで歴史を遡っても、その正しさに反するような事象を見出すことはできないばかりか、全く今日的な事柄においても適切である。

(3−5)それは単に現代的な視点からして正しいというだけではなく、すべてが普遍的な「理」にかなっているのである。こうしたもの(道)が「君」となっているからである。

(3−6)ここに述べられている「宗」とは「道」のことであり、「君」とは「理」のことである。


【補注」宋常星は「道、徳、理」を同じものとするが「理」は新儒教(宋学)からよく言われ出した概念である。


4、つまりは、ただ(道には)知るべきことの何も無いのである。そうであるから(道を)知るべき私もないのである。

(4−1)ここで述べられているのは、知るべきことの無い理由である。「知る」ということの「病根」は、深く考え過ぎるところに根ざしている。

(4−2)耳目を通した見聞によるだけでは、その「性(個々人の本来的な心の働き)」が関与することはなく、そうであれば得た知識や考えていることが正しいかどうかを判断することができないことになる。

(4−3)人としての本来的な心の働きである「性」を失って知り得たことは、全て欲望に覆われている。そのようなバイアスを通して知り得たことが真実といえるであろうか。これはむしろ何も知らない、というべきなのではなかろうか。

(4−4)人は意図をしては真実を知ることはできない。つまり人はただ自分が何ものをも知り得ていないことを知っているだけなのである。つまり意図的に得た知識は真実ではないので、多くのことを知っていると思っていても、それは結局は知らないのと変わりはない、ということである。

(4−5)ここにある「つまりは、ただ(道には)知るべきことの何も無いのである。そうであるから(道を)知るべき私もないのである」とは以上のようなこととなる。


【補注】自分も「道」の中にある存在であるから自分と相対関係にあるものとして「道」を認識することはできない、ということである。自分も「白」、道も「白」であれば自他の関係を見出すことは不可能である。そして自分があるがまま(無為自然)で居れば、それがそのまま「道」を知ることになっているわけである。


5、自分のことを知っている人は少ない。そうであるから自分は貴いのである」と言おう。

【自分は希(かす)かなるものであることを知っている。つまり自分は(道を)貴んでいるのである」と言おう。】

(5−1)ここで述べられているのは、これまでと同じ内容のことを、より明らかに言っているのである。

(5−2)つまり「自分のことは知ることができるが、他人については知ることができない」ということである。つまり自分を知ることは、他人を知ることに比べれば容易であるということである。

(5−3)自分と他人とは「一」なる「道」においては違いはない。「一」なる「徳」においても等しくある。そうであるなら自分が他人を知ることがどうして難しかろう。

(5−3)つまり自分を知る人が希れであるというのは、自分が他人と異なっているからである。自分が他人より高いところに居るからである。そうした境地には天下の誰も至ることはできない。天下の人でそうした高い境地を共有できる人はいないのである。こうした境地に到達し得る人は居ないのである。

(5−4)そうした自分は自分を知るのは実に容易であるが、天下の人で自分を知り得る人は居ないわけである。

(5−5)自分にとって道は実に行いやすいのであるが、天下の誰も自分のように行うことのできる人は居ない。

(5−6)もし自分を理解し得る人が居れば共に行動することもできるであろうし、自分一人が尊くあるということにもならないであろう。そうしたことを「自分のことを知っている人は少ない。そうであるから自分は貴いのである」としている。


【補注】ここで宋常星は「我を知るは希(ま)れなり、則(すなわ)ち我は貴い」と読んでいる。そして道を得ている自分を道を得ていない他人が知ることは難しい、そうであるから道を得ている自分は偉いのであるとする。しかし、これでは老子の第七十二章にある、聖人は自らを貴しとはしない、に反している。この「希」は「希夷」として読まれるべきである。「希夷」については第五章に「これを視ても見ざるは、名を夷と曰(い)う。これを聴いて聞かざるは、名を希と曰う」とある。つまり「希夷」とは無為自然であることを表しているわけである。そうであるから自分が希(かす)かなるもの、無為自然である存在であることを知っている、そうであるから自分は道を貴んでいるとすることができる、という意味でここは解釈するべきであろう。


6、つまりは聖人は簡素な服装をしていても、玉を有しているわけである。

(6−1)貧相な服装とは一重だけの衣服のことである。しかしその内側には玉を持っていたり金糸の刺繍があったりする。

(6−2)老子の「道」は至尊である。老子の「徳」は至貴であるが、老子の「心」は「道」と共にあるので自らを尊いとすることはない。「徳」を有しているので自らを貴いとすることもないのである。

(6−3)こうしたことを古の聖人が簡素な服装をして内に玉を持っているとしているのであり、これは全くの例えであるに過ぎない。

(6−4)全ては内が重要なのであって外にとらわれないことである。本を重視して、末にこだわらないことである。

(6−5)「道」も「徳」も本来的に名を持っては居ない。それは光が特定の部分をだけ照らしているわけではないのと同じである。聖人も普通の人も等しく飲食をして、等しく寝ている。聖人といえども普通の人と多くの違いがあるわけではない。

(6−6)簡素な服装の持つ素朴さは、華美なる服装の見た目の美しさにはないものである。そして、そこには「道」や「徳」を見ることができる。「仁」や「義」を知ることができる。それは明らかであり清らかでもある。

(6−7)道はそれを擦ってもすり減ることはない。黒土はどうしてもそれ以上に黒くなることはないし、美しい石は誰もが美しいと感じるのであるし、盛んな気は尽きることもない。こうした誰でも知っていることは、聖人でも普通の人でも等しく知っていることである。

(6−8)ただ聖人はこうした外的な知識を意図して知ろうとして知っているのではない。そうしたものを得ようとしなくても、その根底にあるものを聖人は得ているので必要な知識は自ずから得ることができているのである。

(6−9)あらゆる知識の根底にあるもの(道)それ自体は意図をして知ることのできないものである。道を学ぼうとする人は、こうした奥深いところがよく分かっているであろうか。

(6−10)外的なことにとらわれることなく、とは簡素な衣服を着ていると思われても、愚かだと言われてもそれに係わらない、ということである。そして内には美なる真を積んで玉を抱いてそれを養う(つまり玉である道を養うわけである)。

(6−11)こうしたことをどうして疎かにすることができようか。自分が道を知る者でなく居ることの不可能であることを知らないで居られるであろうか(道に外れて存在しているものはないのである)。自分には言うことにおいて「宗」となるもの(道)がある。行いにおいて「君」となるもの(徳=理)がある。天下の人を見るに、誰でも等しくこれを知って行い得ることが分かる。しかし、天下の人の誰も道を意図して知り行うことはできない。

(6−12)こうしたことが分からないのは、ひじょうに哀れむべきことであり、それを明らかに知って欲しいものである。老子も同じ思いでこの章を記しているのであろう。


〈奥義伝開〉老子は「道」という語は仮の名前であることを第一章で述べている。そうであるから「道」という語を使わないで教えを説いていたことがあったようで、それをここに見ることができる。始めは「とても知るのは簡単で、行うのも簡単である」と言うのみで何か簡単であるのかは言わない。それを言ってしまうと本当ではなくなってしまうからであるが、それは「道」と仮に称されるものである。

次は「知ることのできないし、行うこともできない」とあって始めと反対のことが述べられている。これも同様に「道」のひとつの側面である。

三番目は「言う事や行う事」において中核となるものがある。それも「道」である。

四番目は「何にも知り得ない。知るべき自分もない」としており、相対的な存在として「自分」と「道」があるのではなく、自分と道は一体であることが教えられている。

五番目は「自分がかすかなるもの(希)であることが分かれば、それは貴んでいることになる」としており「希」つまり自分は道と一体であるという悟りが得られたならば、その時に道の貴重さも分かるとしている。

そして、これらの老子の「道」を語らない教え方は、貧しい衣に包まれた玉のようなものであると、その言い方の真義を示している。


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