丹道逍遥「霊的国防」と「霊的自衛」

 丹道逍遥「霊的国防」と「霊的自衛」

霊的と物的の違いは完全な合一が可能であるか否かにあるともいえよう。霊的な合一は神秘体験としてよく説かれている。神との合一から宇宙との合一まで宗教の世界では「大いなるもの」と合一することで従来までの「自分」の考え方が劇的に変化したことが経験されたとされている。こうした極端なものでなくても、誰しも親しい人や物との「深い縁=合一感」を感じることがあろう。国防や自衛の空間は、ある意味で対立の極みともいうべきものである。そうしたところにおいて「合一」を体験することで対立を超えたあり方を模索しようとするのが、霊的な国防であり自衛なのである。

先ず始めに触れておかなければならないのは「霊的国防論」を唱えたのは友清歓真であるということである。友清は神道天行居と称する団体を作って神秘的な言説をよく唱えていた。その思想は一般には「古神道」の系統とされ、大本教にも深く関係していた鎮魂法で有名な本田親徳の影響を強く受けている。また神仙道やユダヤ陰謀論なども主要なテーマとなっている。そうした中に友清は霊的な国防というものを説いているわけである。それは朝鮮の白頭山の天池や日本の武甲山上、洞爺湖、台湾の日月潭などで祭祀を行うことで可能となる、というものでイメージとしては結界を張るといったものとなろう(戦前は朝鮮も台湾も日本の植民地であった)。

こうした考え方の背景として太平洋戦争の頃には盛んに神社参拝が行われて戦勝祈願がなされてた事実がある。こうした行為は霊的国防観によるものということもできるであろう。そして最後には鎌倉時代の蒙古襲来の時のような「神風」が吹くことを願う人も少なくなかったようである。圧倒的に日本が物質戦において劣勢にあることは日々の生活からも明らかとなって来ていた戦争末期にはそうしたところに活路を見出すしかなかった(迷信に頼るしかなかった)わけである。また軍部などでも「精神戦」が重視されていて厳しい思想統制がなされていた。台湾や朝鮮など植民地には神社が作られ現地の住民に参拝が強制されていたようであるが、こうしたことも広い意味では霊的な結界であり、霊的国防ということができるであろう。

また先の大戦の頃には真偽は不明であるが高野山で調伏護摩が焚かれて特に三角の護摩壇が作られたとかいわれている。こうした迷信による霊的国防が全く機能しなかったのは明らかであるが、霊的国防という視点で見るべきは、およそ「戦い」は人の意志によって始められるという点であろう。これは国家であっても個人であって変わりはない。「戦い」の意志のないところに争いは生まれない。そうであるなら相手の戦う意志をなくしてしまえば、それは最善の防衛策ということになる。一旦、戦争になってしまえば、勝っても負けても大きな損害が生まれてしまう。もし戦争を始まる前に止めることができたならば、それが最も好ましい方法ということになろう。軍備より外交といわれるのは、まさにそのためである。


このように霊的な防衛とは戦いそのものを生じなくさせようとすることなのであるが、これを戦略的に行っているのがチベット亡命政府である。ダライ・ラマは世界の各地で法要を行うなどしてチベット仏教の理解者を増やしている。これは、争いそのものを否定する人の思いを世界中に拡散することで、中共によるチベットの「侵攻」を否定する空気を広めようとしている。この方法の優れている点は直接にチベット侵攻そのものを非難しようとはしていないところである。霊的なものはあくまで霊的であることによって心の共鳴が生じるのであり、物的なものを交えない方がよく心に響くからである。

一方、中共政権は世界各地の大学に孔子学院を設立している。ただこれは儒教を教えるのではなく中国語や中国文化全般を紹介する機関である。またそこには政治的な意図があるのではないかと懸念されることも少なくないようである。これは「国」策という面が前に出過ぎているので霊的な防衛ということでは充分に機能してはいないように思われる。

霊的な防衛ということでは日本のアニメは、注目されるべきものであろう。アニメは国境を越えて世界に広がっており訪日客の増加にも寄与している。これはあるいは三島由紀夫のいっていた「文化防衛」と同じように思われるかもしれないが「文化防衛」は日本の伝統文化を守るということであり、アニメのような日本発の文化を世界に広めるものとは違っている。アニメが世界に広まっているのは「国」という枠組みを容易に越えられるところにあるようで、インターネットの活用もそれを大きく後押ししている。

およそ霊的防衛の眼目は国境を超越するところにある。国境がなければ争いも起きない。これは現実の国境をなくすというのではなく、文化的、精神的、つまり霊的なレベルのおいて国境を持たないということである。つまり国境という彼我を区別するものを超越して人々が交わりを持つということである。

個々人間の「境」の超越を明確に意識したのは植芝盛平で「合気」を「万有愛護」の働きとして霊的に感得し、その理念を合気道を通して伝えようとしていたのであるが、晩年のある時「合気」を止めることになる。それは「合気」ではいまだ完全に彼我の「境」を超越することができないと感じたからである。

ある時、盛平は自己の霊体と立ち会いをしていた。しかしどうしても勝つことができなかった。そして霊体が消えることで「合気」の稽古の終わりを感じたとされている。つまり相手が居なくなることで彼我の「境」がなくなり、そこに真の万有愛護が生まれることが明らかとなったわけである。

「合気」の超克、ただその思いが形として実現することは無かった。一部には「言霊の舞(神楽舞)」として結実されつつあったとも言われているが、システムとしての完成を見るまでには至らなかった。現在の合気道を見ても分かるが、やはり相手をつけて稽古をしていると、どうしても相手を制することから離れることが出来なくなってしまう。それを超越するには一人形でなければならないようである。「神楽舞」のような一人形であれば「合気」を超えた彼我の合一を果たすことがより容易なのではなかろうか。その意味では太極拳などには大きな可能性があるように思われる。攻防の動きを一人で行うという絶対的な矛盾の中のに自己を置くことで、ある種の覚醒が促される。これを太極拳では明神を悟るとしている。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(3)

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(2)

道徳武芸研究 如何に「合気」を練るべきか〜システム論の立場から〜